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熊の飼い方 39

光 20

 徐々に記憶が蘇ってくる。僕はあの子を殺したのか。いやそんなはずがない。しかし、あの首の感触が手から思い出せてきた。生暖かく、細く、微かに宿していた生命の感触が。
 逃げよう。逃げるしか道はない。だがどこに。
 僕のいるべき場所はあそこしかなかった。そう、『影栄会』だ。しかし、こんなことをした僕を救ってくれるのだろうか。人を殺した人間をかくまった罪で迷惑をかけるのではないか。そう感じたが、僕が見つけることができる手段はこれしかなかった。スマホを取り、島崎に電話をした。僕は内容を言わず、ただ匿って欲しいと伝えた。島崎は困った様子だったが、了承してくれた。
 マスクをし、サングラスをし、人目を気にしながら路地を歩いた。できるだけ人目につかないような道をひたすら歩いた。
路地裏には何匹かの猫たちが戯れていた。この子たちも自分の居場所がなく、こうやって人のゴミを漁る、だれかに食べ物をもらう。このようにしながら生きていくしかないのだと思った。初めて、野良猫に共感を抱いた。そんな自分を不思議に思った。
 すれ違う人たちは、必ずと言っていいほど僕を二度見しながら通っていく。そんなにも不気味なのか、それとも怪しいのか。
 気にする前に行くしかないと思い、静寂の中、風をきるように小走りになった。午前中ということもあり、路地を渡り遠回りしてきたのにも関わらず、島崎に指定された場所に、意外に早く辿り着いた。
 着いたところは、5階建ての雑居ビルの地下だった。人目にあまり晒されないビルなので、外見はあまり良いものではなく、見上げるのにも苦労は無かった。
 三人ほどしか入れないエレベーターに乗り込んだ。カビ臭い匂いを放ちながら、大きな音を立て、地下に降下して行った。自動ドアを開けると、島崎はドアの前で待っていてくれた。笑みを浮かべ、僕を扉の向こうに案内した。
 建物の中に入ると、一本廊下が通っており、その際に部屋がいくつかあり、マンションのワンフロアに似た作りをしていた。地下であるのに暗いと言う印象はあまりなく、電気がよく通っているようだった。
「今から、僕の師匠である方紹介するから」と島崎に誘導され、一室に入った。
 そこには、パソコンに向かった一人の男性が座っていた。部屋の中は薄暗く、書斎か物置のようであった。しかし、周りを見渡す気持ちの余裕はなく、ただその男の後ろ姿を眺めていた。島崎がその男を呼ぶと、振り返った。その男は、まるメガネをかけ、頭に毛を蓄えておらず、いかにも中年の代表といったような風貌であった。不振そうに僕は彼を見ていたが、その男は僕がくるのを待っていたように笑みを浮かべた。
「ようこそ。ここは僕の事務所兼生活の場なんだ。部屋一つ空いてるし、使っていいよ。心配することなく生活していいから。あ、申し遅れたね。木村です。どうぞよろしく」
 木村はそう言って手を差し出してきた。握手を交わし、「田嶋です。よろしくお願いします」と簡単に自己紹介をした。木村という男は何処かで会ったかのような親近感があった。それにどこか聞き覚えのある声だった。
 そんなことよりこの人物が何者なのか分からなかった。非常に疑問を抱いた。そのことを聞き出せないまま、島崎に案内され、一つの部屋を紹介された。
 六畳ほどの部屋で、ベッドが奥に一つと、茶色の木製タンスが入り口を入ってすぐ左にあった。中に入ると少しカビ臭い匂いがした。簡素な部屋であったが生活するのには十分な大きさだった。
「ここが田嶋君の部屋な。ちょっとカビ臭くて、古いけど。僕はこの部屋から見て左斜め前の部屋におるから、何かあったら遠慮なく声かけてな」島崎はそう言って、部屋から出て行った。
部屋には灯りは一つだけで、ちかということもあり窓は無く、明るくは無い。今の僕にあっていると思った。ここで生活していれば安心であるとすら思った。しかし、状況は整理し難い。あの木村という男は誰なのだろう。島崎の師匠であるということは、悪い人ではないのだろう。しかし、いい人を装っているだけで、僕を貶めようとしているのではないか。
 だが、こんな場所を用意してくれた時点でそれはないだろうと、木村悪人説は否定した。
 これからどうなるか分からないという不安だけが頭の中を占領している。ベッドに腰をかけ、天井を見上げた。蛍光灯が薄っすらと光っている。そのまま、背中をベッドにつき目を閉じた。

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