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熊の飼い方 38

 影 20

 ここの人達は誰か待ってくれている人がいるのだろうか。ただ単純作業を毎日のように行い、機械のように動いている。時に休憩時間に話し、スポーツをするだけである。
 なにも変わらない、なにも変化のないこの日常に、変化を与え、折れそうな木を支えてくれる人はいるのだろうか。少なくとも、僕にはいない。恋人という人はこれまでにできなかったように思う。できていたとしても、覚えていない時点でいないのと同じである。しかし、周りの人は恋人が出来た、恋人とあんなところに行った、恋人のここが嫌いだということで盛り上がる。よくも他人のことで盛り上がることができるな、と思う。
 自分のことで精一杯の僕にはわからない。いや、そう自分で思わせているだけなのかも知れない。
 僕にも好きな子がいたことがある。中学生の時の同級生、玉井さんだ。席替えで隣の席に座り、こんな僕に優しく接してくれた。その子は黒髪の綺麗な長髪で、僕とは正反対で友達も多くいた。笑顔が素敵で笑った時にエクボができ、目尻にたくさんの皺をつける。そんな屈託のない笑顔がこの世を照らすような太陽のようだった。僕とは気が合わないだろうと思っていたが、隣にいるからなのか、僕という存在にただ単に興味があっただけなのかは分からないが話しかけてくれた。その時間は僕にとって、僕の『影』を照らし、暗い室内からオープンテラスにしてくれるようだった。
 しかし、このようなものは嵐がくれば、すぐに壊れる。中学校では良くあることだが、からかわれるということによってだ。彼女は、クラスでも人気な美女であったらしく、僕と話している気に食わない男子が僕をからかい始めた。
 田嶋が玉井さんの体操服を盗んだ、田嶋が玉井さんを盗撮して部屋に飾っているなど、あらぬ噂を流された。
 こうなることは分かっていたがショックだった。玉井さんは自然と僕から距離をとっていった。そこから、恋をすることに罪悪感しか抱かなくなってしまった。女性に迷惑をかけるものだとして。だが、からかわれる前に一度だけ彼女が言った言葉で引っかかることがあった。
「私も、田嶋君になれたらなぁ」
 その当時は、よく分からなかった。今よく考えてみても、よく分からないが少しだけ分かる気がする。なぜ僕みたいな人間になりたいのか。彼女に無かったものが僕にはあったのだろう。
 人間、ないものねだりをする生き物だが、僕に「ある」ものとは何なのだろう。今日一日はこの議題を頭に巡らせた。


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