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熊の飼い方 31

光 16

 朝か夜か分からない。遮光カーテンにより、外の光をほとんど遮っている。入ってくるのは、隙間からの光だけである。会社からの電話などがあると気分が下がるのでスマホは電源を切っている。
 ワンルームの部屋にあるのは、ただのゴミばかりだ。カップラーメンのゴミ、食べ終えたパンの袋、三分の一程度しか読んでいない雑誌、飲み残したペットボトル。一週間以上も経っているため、部屋中に異臭が漂っている。しかし、捨てる気にはなれない。口元に手を当てると、髭が異様に伸び切っていることを感じる。筋肉も日を重ねるごとに落ちてきているのではないかという不安も過った。カレンダーを眺めたが今日が何日であるかさえ分からない。
 スマホは開きたくなかったが、日程だけ知ろうと思い、電源をつけた。一週間ほど休むと会社には伝えてあったが、何件かは電話が入っていた。もちろん返す気はなく、電源を切ろうとした。しかし、気になるメールが来ていた。
 『今日の午前十一時にあの喫茶店で待ってます』
 島崎からだった。会社には行きたくないが、島崎と会うことにはそれほどの抵抗はなかった。しかし、外に出ることさえ怖くなっていたため悩んだ。だが、この状況から救ってくれる望みはもうこれしかないのではないか、と思う。遠くに一点だけの光を見つけたようだった。
 久しぶりにカーテンを開けると、身体に太陽の光が刺さった。鬱陶しいほどの光になれるのに時間がかかる。髭を剃り、身なりを整え、マスクをして外に出た。外は変わらず動いていた。僕を取り残していくように。自分の遅れを身体で感じ、本能的に家に戻ろうとした。しかし、このまま戻ってしまうともう現実に追い付いていくことができないと考え、足を前に出した。
 この前の喫茶店に行く道のりは、だいたい覚えていた。だが、近付くにつれ迷いが生じてきた。何度も帰ろうと試みたが、自分の心はいい状態になりたいと叫んでいたため、足は動き、辛いながら前に進んだ。歩いている間、会社の人物に合わないか、誰かに見られているのではないかと終始ビクビクしていた。
 背後からの足音さえも気になり、何度も後ろを振り返った。運の良いことに誰にも会うことなく、大阪の喧噪を抜け、喫茶店に着くことができた。喫茶店に着き、島崎に会った瞬間に言われた言葉に驚きを隠せなかった。
「ちょっと痩せた?」心配そうな顔で島崎は聞いてきた。
「そうですか?」僕は、不思議そうに答える。
 島崎に向かい合って座った。島崎は、今日もスーツをいかにもビジネスマンらしく着こなしていた。それを見るなり、緊張が体を硬化させた。
「最近、俺もジムに通ってて顔痩せたやろ?」緊張をほぐすように島崎は言う。
「そうですね」
「そんなお世辞ゆわんでええよ」笑いながら島崎は言った。
 たわいもない会話が続いた後、島崎はそれとなく僕の心配をしてきた。
僕は、鼓動が早くなっているのを必死に抑え、今の状況を話した。言い出すのには時間がかかったが、島崎は言って欲しそうにしていたため思い切って言った。だが、記憶の無くなったところは、自分でも正確に思い出せていなかったのと言うべきではないと判断し言わなかった。
 島崎は、僕の吐き出している悪い空気を吸い取る空気清浄機のように、否定をせず、相槌を打ちながら僕の話を聴いてくれた。僕は、涙がこぼれ落ちるのを必死で抑えながら話した。
「それは辛いな。大丈夫。一旦落ち着こう」
 驚いた。すぐに警察に行こうとでも言うと思っていた。
 僕は、毒を吐ききって疲れたようにうなだれていた。何かのアドバイスを島崎はして来るのかと思っていたが、違う言葉が出て来たことに驚いた。
「この前、なんでテレビに出ている芸能人や歌手があんなに輝いて見えるか分かるか聞いたよな?」
「あ、はい」
「まあ、多分そんな考える余裕がなかったやろし、答え言うわ。今思いつく?」
「いや、わかりません」
「それはな、『影』があるからやねん」
「かげ?」
「そう『影』。そこに真実があると思うねん。でも、これは俺の言葉やないし、あの方の言葉やからそう簡単には語れん」残念そうに島崎が言った。
「もし、気になるんやったら俺と一緒にぜひ行って欲しいところがあんねん。俺も病んどった時期あったやん。正直、そこで救われてん。行く?」
「はい」迷うことなくはっきりと僕は返事した。

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