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熊の飼い方 43

光 22

 一人でいると急に吐き気が訪れる。思い出してしまうからだ。あの感触、あの心臓の鼓動、あの叫び声。僕には元から、あのような小さな子に興奮するような要素はあったのだろうか。そのような不安も押し寄せてくるようだった。
 後悔しても戻らない時間なのだが、その時間が自分の中で止まり、今に流れ出てくる。なのに、この部屋のものは何も変わらない。
 ここは地下であるため、外の状況がわからない。晴なのか、雨なのか、暑いのか寒いのか。
 蛍光灯の紐が一定の速度で揺れている。この部屋に一人でいたら、おかしくなる。そう思い、部屋を出て談話室の場所に向かった。
 談話室の扉を開けると、そこには僕に背を向け、何かを食べている木村がいた。僕が入った瞬間、こちらを向き、敵意のない笑みを浮かべ、僕を見た。
「ここの生活はどう?」木村が言った。
「はい、いい感じです」
 どう答えてよいか分からなかったのでこう答えるしか無かった。正直、可もなく不可もなかった。だが、匿ってもらっているため文句は言えない。もう部屋に帰ろうかなと思ったが、木村が話し出す。
「人生って虚しいよね。楽しいことなんかふわっときて、ふわって消えていく。でも、苦しいことや悲しいことは、自分の体にこびりついて、何度こすっても取ることができはないんだよね」
「そうですね」僕は戸惑いながら答えた。
「でも、そのふわっとした瞬間をしっかりと噛みしめることができたらどんなに幸せなんだろうな。ま、そう簡単にはいかんのやけどな」
「ふわっとですか。確かにそうですね」
「ごめんね。急に変な話して」木村はそう言って、談話室から出て行った。木村の言葉が頭に残った。
 楽しいことはふわっと、か。忘れたいことは本当にこびりついたように今僕を覆っている。どうしようもできないぐらいにしつこく。
 あの木村という人物はどんな人生を送ってきたのだろうか。少なからず、僕よりは様々な経験をしているだろう。


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