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熊の飼い方 37

光 19

 それから僕は外に出なかった。いや、出ることができなかったのが正しいだろう。誰かに見られているのではないだろうか。家を特定されるのではないだろうか。そんな思いが永遠に続いた。吐き気が三十分に一度程度起こる。
「田嶋君元気?佐々木君から田嶋君が会社を長く休んでいると聞きました。色々大変なこと多いと思うけど、あまり無理せずに。前の講演よかったと言ってたので、昨日の録音送りますね。ちゃんと許可とってるので大丈夫ですよ」
 二週間前、島崎からのメールが来ていた。この人にバレたらどうしよう。そんな恐怖が芽生えたが、この人は連絡先しか知らないし、住所は知らないから大丈夫だと思った。
電話の履歴は何十件も残っている。思考能力がだいぶん衰えてきていることに気づく。部屋の中は、自分の臭いやゴミの臭いで悪臭が鼻を容赦無く痛みつける。しかし、外に出ることはできない。空腹と不潔さでどんどんと痩せてくるのが分かる。
 微かな力で、島崎が送ってくれた録音を流した。
『みなさんこんにちは。今日もお元気そうで何よりです。お元気ではない方もいらっしゃるかもしれないですね。でも、私から見るとお元気なのでお元気ということにしておきましょう。(笑い声)さて、人間はなぜ働くのでしょうか?いや、それ以前になぜ生きているのでしょう?これは、現在の全人類の課題であると思います。私にも正解はわかりかねます。しかし、正解を見つけるヒントを出せたらいいなと思っております。では、例え話をしましょう。時計は何で動いていますか?時計の中を見たことがある人は簡単であると思います。そうですね、歯車です。いくつかの歯車によって、時を刻んでいるのです。この歯車が一つでも外れたり、壊れたりしたらどうでしょう。時を刻むのをやめてしまいます。みなさんは小さい頃、社会の歯車にならないように、回す側の人間になるように勉強しなさいと言われて来たと思います。しかし、私はその発想は間違っていると思うのです。なぜなら、どんな人も全員歯車だからです。それは、地球規模で考えるのではなく、宇宙規模で考えた時です。宇宙規模で考えると、地球なんてものは小さいもの。その中で働いている、生きている僕らは結局、歯車なのです。だから、照らされている、動かす人間になろうとしたところであまり意味がありません。じゃあ、働かなくて良いじゃないですか。という人もいらっしゃると思います。それは違います。どうせ歯車なら、自分がいなくなると困るぐらいの大きな歯車になったらいいんです。大きな歯車であれば、作り直すのも難しい。そんな歯車になったらいいじゃないですか。でも、だからと言って、頑張る必要もありません。みなさんはもうすでにこの世で欠かせない歯車なのです。時計を『影』で支える重要な歯車。今でも。だから自信を持ってください。みなさんは生きていていいんです。迷うことはない。宇宙の時を刻む誰にも変え難い歯車なのですから』
 長いはずであった時間が一瞬だけ早く流れていくような、自分が違う世界に行ったような気分であった。
 考えてもみなかった。人を動かせる人間であるとどこかで過信していたのかもしれない。自分の汚い体も部屋のくさい臭いも少しの間気にならず、心が少し救われたように感じた。


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