「パーティーが終わって、中年が始まる」を読んで、「死」に対する考えが変わった



はじめに

phaさんの著書「パーティーが終わって、中年が始まる」を読んだ。
この本は若さを失い中年になったphaさんの心境の変化を、phaさん自身の経験を基に綴ったエッセイ本である。
私はphaさんの著書が好きで、これまでに出版したphaさんの著書のほとんどを読了した。
なので、新書の出版の告知を目にした時は、「早く読みたい!」と胸を踊らせた。

また、SNSで目次を先行公開しており、その中に、「死について考えなくなった」というタイトルがあった。
私自身が今年の5月に死に関する文章をnoteに書いて公開したことと、
これまでにphaさんは自身の著書で死について肯定的に言及しており、
それが中年になりどのように変化したのだろうと思い、早く読みたいと、心の底からワクワクしていたのだった。

書籍が発売され、kindleにダウンロードし、読んだ。
気になっていた、「死について考えなくなった」も、当然読んだ。
読み終えて、私の「死」に対する考えに変化が起きた。


「pha / パーティーが終わって、中年が始まる」より引用


変化する前の私の「死」に対する考え

どのように変化したのか結論を述べる前に、変化する前の私の「死」についての考えを述べようと思う。
私は以前、「死」に関する文章をnoteに書き、公開した。

その中に、

若い頃は、死は遠い未来の出来事だと思っていて、人間はいつか死ぬと分かってはいるがその事実に目を逸らし生きていた。
しかし、心身共に苦しくなり病院に駆け込み適応障害と診断された過去と、人生に絶望し完全自殺マニュアルを衝動買いし読んでしまった過去の経験から、死は身近な存在へと変わった。

「後世に人を遺せなくても、言葉は遺せる」より一部を加筆修正して引用


と私は書いていて、これは嘘偽りのない、私の「死」に対する考えだ。

そして上記の文章を書いて2ヶ月ほど経った今、「死」はさらに身近な存在になったなと感じている。
なぜならば、引きこもりニートだった頃と比べ、外に出る機会が増えたからだ。
外出中に、見知らぬ人から危害を加えられるかもしれない。
職場までは車で移動しているので、事故に遭う確率がシンプルに増えた。
仕事はほとんどの時間を一人で行っているので、もし一人の時に体調が急変してしまったら、誰にも助けてもらえず死ぬかもしれない。

死はいつ訪れるか分からない、隣り合わせの身近な存在だ。
だからこそ、死ぬときに後悔しないような人生を送りたいなと思い、今日まで生きてきた。


変化のきっかけとなった文章

上記のような「死」に対する思いを持ちながら、
「パーティーが終わって、中年が始まる」の「死について考えなくなった」を読んだ。

そこには、

しかし四十代半ばになった今は、死についてあまり考えなくなってしまった。この年代になると、死というものが現実の対極にある観念的なものではなく、単にリアルで嫌なものになってきている。

「pha / パーティが終わって、中年が始まる」より引用


と書かれていた。

これを読んで、私は結構大きめなショックを受けた。
なぜならば、私の「死」に対する思いは、年老いて死に近づけば近づくほど大きくなっていくものだと思っていたからだ。

タイトル的に、今まで肯定的に捉えていた部分に、ネガティブな一面が出たのかなと思っていたけれど、まさか「単にリアルで嫌なもの」とスパッと否定するとは思っていなかった。
自分が今まで正しいと思っていたものが、実は正しくなかったかのような感覚を感じた。
死を肯定的に捉えられるのは三十代までの特権で、中年になり死が嫌なものになってしまったら、どのように死と向き合えば良いのだろうか。
死との向き合い方が、分からなくなってしまった。
今後、死とどのように向き合うか、考え直さなければならないと思った。


死を「利用」して、生きる

どのように死と向き合えば良いのだろうと、悩んだ。
しかし、本を読み終えて1ヶ月くらい経った今はもう、悩むのを辞めている。

なぜならば、向き合っているのは「死」だからだ。
中年を迎える前に死んでいるかもしれないし、もしかしたら明日死ぬかもしれないのだ。
生きて中年を迎え、死が嫌なものになったらまた考え直せばいいし、どうなっているか分からない未来を悲観し悩むのは辞めようと思った。

そしてこれからは、死は身近な存在だと思いつつ、自分を知るための装置のように「利用」してやろうと思った。
phaさんは著書で、

死に向かい合うと、人はシンプルに、自分自身に正直になる。そうやって自分を知るための装置として、若い頃は死を利用していた。

「pha / パーティーが終わって、中年が始まる」より引用


と書いていて、これを読み「なるほど」と思った。
死を「利用する」という発想は私には無かったので、
「非常に参考になるな」と思ったのだ。

私は現在、
「人はいつ死ぬか分からないから、死ぬ時に後悔したくない。
だからもっと本を読みたいし、もっと文章を書きたい。
そして自分の足で人に会って、自分の耳で話を聞いて、自分の口で話がしたい。
だからまだ死にたくないけれど、そう思えるのは死ぬ覚悟が出来ているからだ。
と思っている。

このように思えているのは、「死を身近な存在だと感じつつ、自分を知るための装置のように死を利用した」ことで溢れてくる、私の正直な気持ちなのだろう。

中年の定義である四十歳までの残り6年と数ヶ月、死をとことん利用してやろうじゃないか。
死を利用するだけ利用しまくって、生きてやろうじゃないか。
死よ、いっぱい利用するからな。これからもよろしくな。


参考文献


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