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【いざ鎌倉:コラム】源実朝政権始動 1203年の鎌倉幕府

今回は番外編コラムです。
頼朝から頼家に鎌倉殿が交代したとき同様、実朝の時代を書く前に、実朝政権の体制と幕府の現状を確認しておこうと思います。
前回更新は源頼家の人物伝でした。

幕府と征夷大将軍

「比企氏の乱」(北条氏の乱)によって失脚に追い込まれた兄・頼家に代わり、幕府の当主・鎌倉殿に推戴された源実朝。
兄・頼家との大きな違いが最初から征夷大将軍としてその治政が始まるという点です。
我々はこの後の室町・江戸幕府を知っていますので、先代が亡くなる、あるいは将軍を辞任すれば速やかに後継者が将軍を継ぐことが当たり前のように思ってしまいがちです。
しかし、兄の頼家の場合は父・頼朝が亡くなった際は「頼朝の事績を継ぐこと」(鎌倉殿としての地位)を認められただけで、将軍宣下までは3年半の時間を要しました。
幕府側が早々に将軍宣下を朝廷に依頼し、朝廷側もそれを認めたということで、実朝の継承以降、「幕府の棟梁に就任=征夷大将軍への就任」という認識が定着し始めると言ってよいでしょう。

執権・北条時政

実朝を将軍に擁立したことで、乳母夫であった北条時政が御家人の筆頭となり、政所別当に就任します。
実朝は時政の邸宅である名越邸に移り、御家人たちは名越邸を御所として足を運ぶことになりました。
そして、幼い実朝に代わり幕府発給の文書は時政一人の署名で発行されるようにもなります。
時政が絶大な権力を握ったことで、一般的にこの時に「執権」に就任したと理解されますが、この時点では大江広元も執権と称され、「両執権」であったとも言われます。

時政・牧の方と政子・義時

時政は比企氏を追い落とし、御家人筆頭の地位を確立しましたが、その地位は娘の政子あってのものでした。
これまでも繰り返してきましたが、本来、北条氏は源氏嫡流と血縁関係を結べるような家柄ではありません。
これは頼朝が「時政が父親だから政子を嫁にした」のではなく、「政子を嫁にしたから時政を親族として扱った」ということであり、政子が主、時政が従の関係にあります。
比企氏を滅ぼす際も、比企能員を殺害したのは時政ですが、最後の詰めとして御家人たちを動かすには政子の権力が必要でした。

「娘あっての父」という立場こそが時政の最大の弱点でした。

そして時政は後妻で年の離れた牧の方を愛し、その間に生まれた子・北条政範を嫡男として扱います。
時政・牧の方と先妻の子である政子・義時は決して良好とはいえない微妙な関係にありました。

下記も参照。

比企氏という共通の政敵を滅ぼしたことで、北条家内部の対立も徐々に表面化していくことになります。

北条義時と比企氏

頼家政権では存在感の無かった来年の大河ドラマの主人公・北条義時ですが、比企氏の滅亡後、信濃と大隅の守護職に就任し、実朝の側近としての地位を固めていきます。
信濃守護は比企能員のポストでしたから、政変によって比企氏の権益を北条氏が引き継いだことがわかります。

なお、義時の正室は姫の前と呼ばれる比企朝宗の娘であり、二人は源頼朝の仲立ちにより結ばれました。しかし、比企氏滅亡により、二人は離縁となります。その子の朝時は後に祖父・時政の屋敷・名越邸を受け継ぎ、名越家の祖として名越朝時とも呼ばれます。
祖の朝時が正室の子であり、加えて時政の屋敷を継承したことから我々こそ本流との意識の強い名越家は、本家である得宗家に対抗心を燃やし、北条一門内の抵抗勢力となっていきました。
北条vs比企の血の争いは得宗家vs名越家と形を変えて、鎌倉時代中期まで続いていくことになります。

後鳥羽院政との関係

実朝期の幕府が頼朝・頼家期と大きく違う点は後鳥羽上皇という強力な個性とカリスマ性を持った帝王が主導する朝廷の出現です。
もちろん、後鳥羽院自身は頼朝生前に天皇として即位しており、これまでも後鳥羽院の治政だったわけですが、九条兼実と源通親が去り、朝廷は完全に後鳥羽院主導で動くようになりました。
これまでとその性格は異なりつつあります。

第17回で書いた通り、「実朝」の名前は後鳥羽院が命名しました。
後鳥羽院がこのことをどのように考えたのかわかりません。
ただ、実朝自身はこのことを生涯光栄に感じていたのではないでしょうか。
実朝はこの後、後鳥羽院の後を追うように和歌に没頭し、公武の頂点それぞれが和歌の名手という時代が訪れることとなります。
後鳥羽院も実朝の幕府との関係を重視し、朝廷と幕府の関係は安定します。
しかし、その一方で承久の変へと続く朝廷と幕府の対決の伏線も用意されていくことになります。

次回予告

最近長めの記事が続いたので今回は番外編にして短めのコラムとしました。
次回、平賀朝雅と三日平氏の乱。

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