見出し画像

【いざ鎌倉(4)】大衆に愛された物語 曾我の仇討ち

本編第4回です。
今回から話は1193年‐建久4年に移ります。
このペースだと1221年まで全50回構想は無理ですね(汗)

今回は軍記物語では『曾我物語』、歌舞伎や能では「曾我もの」として有名な曾我兄弟の仇討ちについて。

本編前回はこちら。

番外編を一度挟みました。

巻狩の実施 源頼家の晴れ舞台

建久4(1193)年3月、後白河院の一周忌の喪が明けると、源頼朝は巻狩を実施します。
巻狩とは、騎馬に乗った武士たちが四方から猪や鹿といった獣を囲い込み、追い詰め、馬上から弓を放って獣を仕留めるというゲーム要素もある軍事訓練です。
頼朝はこの巻狩を信濃国(長野県)三原野、下野国(栃木県)那須野、駿河国(静岡県)富士野と立て続けに3度実施します。

5月15日からはじまった東国最大の狩場である富士野での巻狩は、多数の御家人が参加する盛大なものとなりました。
駿河守護であった北条時政が準備を任されました。

2日目の16日、頼朝と幕府にとってめでたいできごとがありました。
頼朝の長男で12歳となった源頼家が初めて鹿を射止めます。

頼朝はこのことを大変喜び、その日の狩りを即座に中止。
武家の男子が初めて獲物を射たときに行う「山神・矢口の祭り」を行いました。これは神に感謝し、武運を祝す神事であり、祝宴でした。
段取りが良いので、この富士野で頼家が獲物をしとめることは予定されていたことだったのでしょうね。

なお、頼朝は1190年に下河辺行平という武士を嫡子・頼家の弓の師範に選んでいます。
行平は、平将門を討った藤原秀郷の子孫で、流鏑馬や笠懸などの重大な儀式や行事で頼朝が射手を任せる弓の達人でした。
当時の御家人たちの多くは確かに平家との戦いで実戦経験を積んではいましたが地方出身であり、儀式で披露できるような美しさ・マナー・高い技術を兼ね備えた「武芸」を備えていた武士は少数派です。
どれだけ強くても素人の喧嘩自慢が空手の演武は披露できませんよね?当時の鎌倉幕府はこの喧嘩自慢の集まりなわけです。
そして、この喧嘩自慢たちの前で、弓の達人を師とする12歳の頼家が華麗な騎射で獲物を仕留めたわけですから、これは頼家が幕府の後継者であることを示す絶好の政治的アピールとなったはずです。

頼朝はすぐに鎌倉の政子にもこの慶事を伝える使者を送りますが、政子は「武家の嫡子なら当然のこと」と使者を追い返したそうです。
政子も内心では喜んでいたのか、武士ではない女性の政子にはめでたいという感覚が希薄だったのか、生まれたばかりの千幡(実朝)に心が移っていたのか、解釈の難しいところです。

しかし、この慶事のあった富士に血の雨が降ることになります。
巻狩が続けられていた5月28日の深夜、頼朝の側近である御家人・工藤祐経が曾我祐成と曾我時致という若い兄弟の武士に惨殺されたのです。

17年越しの仇討ち

話は平安時代の末期、工藤祐経と伊東祐親という伊豆国の2人の武士の争いに遡ります。
この2人、工藤祐経が祐親の娘を妻としており、義理の親子の関係にありました。
しかし、祐経が平重盛の家人として京に上洛中、祐親は祐経の所領であった伊東荘を奪い、娘を連れ戻して離縁させてしまったのです。

安元2(1176)年10月、これを恨みに思った工藤祐経は伊東祐親を討つべく刺客を送ります。刺客の放った矢は祐親本人を外しましたが、祐親の嫡男・河津祐泰を殺害することに成功しました。
この河津祐泰の遺児(伊東祐親の孫)が曾我祐成と曾我時致の曾我兄弟です。祐泰の妻は後に曾我祐信という御家人と再婚し、幼い兄弟は曾我家で育ちました。
成長する中、2人は父の敵討ちを心に誓ったといいます。

画像2

歌川国芳が描いた曾我兄弟の浮世絵

襲われて生き延びた伊東祐親(曾我兄弟の祖父)はその後、挙兵した源頼朝を相手に平家方の武士として戦うものの、敗れて自害。
一方の工藤祐経(曾我兄弟の親の仇)は頼朝に在京経験を買われて御家人となり、奪われていた伊東荘を取り戻すことに成功しました。源平合戦にも従軍し、武功を立てて頼朝の側近の一人となります。

1193年5月28日深夜、富士野は雷雨でした。
巻狩に参加し、宿営地で休んでいた工藤祐経を曾我兄弟が襲撃。
17年越しの仇討ちを成功させました。
その後、闇夜の中で乱戦となり、兄弟は御家人10人を斬り伏せる、いわゆる「十番切り」を繰り広げたものの、兄の祐成は御家人・仁田忠常に討ち取られます。
弟・時致は頼朝の本営にまで迫りましたが、取り押さえられました。

翌29日、頼朝は曾我時致を直々に尋問し、仇討ちに至った思いを聞いて感心し、助命を考えますが、討たれた工藤祐経の遺児・犬房丸が斬首を訴えたため、処刑されました。

後世に伝わる曾我の仇討ち

6月1日、兄の曾我祐成の妾で大磯の遊女であった「虎」という女性が幕府に召し出され、取り調べを受けます。虎御前とも呼ばれた彼女は無罪と判断され、放免されました。
その後、虎御前が兄弟の供養続けながら、2人の仇討ちを人々に語り、それが諸国を巡る尼や巫女、僧侶をとおして口から口に伝わって書物となったのが軍記物語『曾我物語』といわれます。

江戸時代には大衆に愛される物語として能、人形浄瑠璃、歌舞伎などで演じられるようになり、曾我兄弟に関連する作品群は「曾我もの」として定着します。
特に江戸歌舞伎では毎年正月に曾我ものを上演するのが慣わしとなり、今も多くの演目が残されています。

次回予告

曾我兄弟の父・河津祐泰は確かに巻き添えで死んでるんですけど、工藤祐経が京にいる間に所領と妻を奪った伊藤祐親(曾我兄弟祖父)が一番の悪人な気が……

さて、曾我の仇討ちは単に若い兄弟が親の仇を討った感動的な話では終わりません。
この事件は鎌倉時代の政争と抗争、その幕開けにすぎないのです。
次回から、事件後に起こる政変に注目してみます。

次回、「源範頼の失脚」です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?