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【いざ鎌倉:コラム】歴史の中の後鳥羽院

今回は後鳥羽院について。
ただ、後鳥羽院については本編で十分に書き尽くしましたので、今回は後鳥羽院が隠岐へと流され、そして崩御した後、歴史の中でどう評価されてきたのかを史料を引用しながら解説していきたいと思います。

絶対の帝王、その存在感と転落

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まずは簡単に後鳥羽院についてまとめます。
「いざ鎌倉」というタイトルでありながら、この連載で最も触れる機会の多かった人物は幕府の将軍でも執権でもなく、後鳥羽院であったかと思います。
それだけ我が国の1192(建久3)年~1221(承久2)年という時期において、後鳥羽院の存在感は圧倒的でした。

和歌、漢詩、琵琶、蹴鞠、武芸、作刀、そして朝廷儀礼の復古など、あらゆる事物に全力で取り組み、成果を残しました。
そのエネルギーと多芸多才ぶりはやはり「神器なき即位」というコンプレックスの裏返しであったように思います。
皇祖皇宗の中で自分だけの欠落。それを埋め合わせるために後鳥羽院はあらゆる分野における成功の積み上げを必要としました。
その成功の象徴こそ、後鳥羽院自ら編纂作業に加わり完成させた『新古今和歌集』であり、その完成度は後鳥羽院が王朝文化の頂点であると誰もが納得させるものでした。
しかし、天皇とは単に文化世界の頂点にとどまりません。『古事記』、『日本書記』に記される神代から上古の時代には天皇は軍を統べる存在でもありました。
後鳥羽院の鎌倉幕府をコントロールするための闘争であった「承久の乱」とは、この2つの天皇像を統合する試みであったとも言えるでしょう。
しかし、それは新時代を担う力であった武士によって否定され、皇家と武家の繋がりは鎌倉・室町・江戸の代々の幕府の治政下で著しく制限されることになりました。

流刑後の後鳥羽院の評価(『六代勝事記』より)

同時代においては圧倒的存在感を誇った後鳥羽院ですが、死後の評価は歴代天皇の中で決して高くありません。
敗者として流刑に処されたこと、皇室に滅亡の危機を招いたことがその理由でしょう。
ここでは、後鳥羽院の死後の評価を紹介したいと思います。

まずは、高倉・安徳・後鳥羽・土御門・順徳・後堀河の六代の天皇について書いた歴史物語『六代勝事記』の後鳥羽院の評価を見てみましょう。
書かれた時代は「承久の乱」よりわずか数年後のことです。

芸能二つをまなぶなかに、文章に疎にして、弓馬に長じ給へり。国の老父ひそかに、文を左にし、武を右にするに、帝徳のかけたるをうれふる事は(中略)国のあやうからん事をかなしむなり。

このように「後鳥羽院は文章を疎かにし、武芸を好み帝徳に欠けていた」と評価します。
同じ『六代勝事記』には

我国はもとより神国也。人王の位をつぐ、すでに天照大神の皇孫也。

という記述があります。
これは当時の知識人の一般的な認識と考えて良いでしょう。
「天照大神の皇孫」が臣下に敗れるというのは驚天動地の事態でした。
これを合理的に説明する論理が「善政は帝王の徳によってもたらされる」という儒教の徳治主義であり、後鳥羽院の敗北は「不徳」とされました。
『新古今和歌集』編纂に熱心に取り組んだ後鳥羽院に対して「文章に疎にして」の評価が適切ではないことは説明不要ですが、そうした無理な評価をして「不徳」のレッテルを張らないことには当時の人にとって「天照大神の皇孫」の敗北は説明も納得もできなかったのです。
この『六代勝事記』に見られる「後鳥羽院=不徳」の評価は、今日に至るまで後鳥羽院の評価の基礎となっています。

南北朝時代の後鳥羽院の評価(『神皇正統記』より)

少し時代が下ります。
次に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の側近である北畠親房の後鳥羽院の評価を見てみましょう。
親房が著した歴史書『神皇正統記』より引用します。
長くなりますが、興味深いのでご容赦ください。

頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。
(=頼朝の功績が過去に例がない大きなものであっても、天下を握ってしまえば、天皇として心やすからず思われるのも道理である。ましてや、後室の政子や陪臣の義時が政治を握る世であれば、彼らを排除して御心のままに政治を行うというのは一応、筋は通っている。)

ここでは、親房は後鳥羽院が政子・義時姉弟を排除したくなる気持ちはわからなくはないと一定の理解を示します。
しかし、これに続く箇所では親房は「白河院以後の世の乱れを鎮め、万民を安心させたのは皇室ではなく頼朝であった」と、頼朝の功績を高く評価しています。
その次の箇所を引用します。

王者の軍と云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。
(=王者の軍(官軍)とは、過ちがある者を討ち、罪なき者を滅ぼさない。頼朝が高官に上って日本国惣守護となったのは後白河法皇の勅裁によるものであり、私心で盗み取ったものではない。政子が頼朝死後の幕府を取り仕切り、義時が長く権力を握っても人望を失わなかったのだから、臣下としての罪があるとは言えない。十分とは言えない理由で追討しようとしたのは、上皇の過ちと申すべきであろう。)

後鳥羽院と親房が仕えた後醍醐天皇、ともに幕府を相手に兵を起こした帝王ですが、親房は後鳥羽院が挙兵した時点では鎌倉幕府に罪はなく過ちであったと語ります。
これは裏返せば、後醍醐天皇が挙兵した際の鎌倉幕府には罪があったという論理になるでしょう。
そして、この文章が書かれたのは南北朝時代であり、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇の南朝は足利尊氏の室町幕府、北朝と対立状態にあったということも重要な点です。

そのため『神皇正統記』に記された親房の論理は、
「後鳥羽院が敗れたのは源頼朝、北条政子・義時に罪がなかったからであり、後醍醐天皇が勝利したのは北条高時に罪があったからである。いま自分たちと対立する足利尊氏も罪があるから討たねばならないし、後村上天皇が当然勝利する運命にある」
という現実の政治の動きに結びついて構築されていると考えなければなりません。
足利尊氏との比較から、源頼朝や北条義時は少し評価が盛られていると言えるでしょう。

その上で『神皇正統記』には次のような記述もあります。

下の上を剋するはきはめたる非道なり。終にはなどか皇化に不順べき。先まことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のことゝぞおぼえはべる。
(=臣下が君主を討つ下剋上は極めて非道である。いつの日か天皇の威徳に従うことになる日が来る。それは、まず真の徳政を行い、朝廷の権威を高めることに幕府を討つ道があり、その上で実現できる。)

「後鳥羽院は幕府以上の徳政を行わなかったから敗れた。真の徳政を行えば、幕府(鎌倉も室町も)は打倒され、皇威に従う日は来る」
北畠親房の考えをまとめるとこのような感じになるでしょうか。
徳政を重視する考えから、ここでも徳治主義を読み取れます。

江戸時代の後鳥羽院の評価(朱子学から尊皇論)

続いて江戸時代における後鳥羽院の評価を見ていきましょう。
まずは江戸時代中期の朱子学者にして幕政にも強い影響力を持った新井白石『読史余論』の後鳥羽院評を引用します。白石の議論は前述の北畠親房の『神皇正統記』を発展させたものであり、私が引用した『正統記』の記述も引用されています。その後に記される白石の見解が下記です。

謹みて按ずるに、後鳥羽院、天下の君たらせ給ふべき器にあらず。(中略)おもふに初め、後白河の、君を択(え)み給ひしやう、事がら軽々しき御事なり。高倉の御子を立てられんとならば、長を立つる事は定れる事なれば、三宮をや立て給ふべき。(中略)かくその始の正しからざるが故に、その末いかでかは治るべき。
(=謹みて考えを述べるに、後鳥羽院は治天の君の器ではなかった。思うに後白河院が後鳥羽院を天皇に選んだことから軽々しいことであった。高倉天皇の皇子を天皇とするならば、年長者を立てる事が当たり前で、三宮(=後鳥羽院の兄・惟明親王)を立てるべきであった。こうして治世の始まりが正しくないのだから、その終わり正しく治まるはずがない。)

痛烈な批判!「そもそも後鳥羽院が即位するのがおかしい。論外」というのが新井白石の議論です。

続いて水戸藩の儒学者、安積澹泊の後鳥羽院評を紹介します。
安積澹泊は徳川光圀に仕えた前期水戸学の代表的学者であり、新井白石とは同時代の人ですがかなり主張が異なります。

帝、位を遜に及び、北条義時の権を竊むを悪みて亟かに之を誅せんと欲す。これ誠に有為の主なり。然れども徳教を修めず時世に審かならず、(中略)況て将は其の人に非ず、兵に紀律無し。
(=後鳥羽院は譲位した後、北条義時が権力を盗むのを憎んで討とうとした。このことは君主として立派である。しかし、院は徳を修めず、時世に暗かった。さらに将に適切な人はおらず、兵に規律がなかった。)

安積澹泊の議論は、後鳥羽院の挙兵を正しい行いだったと評価し、その失敗の原因を単純に徳の無さだけに求めず、適切な指揮官がいなかったことや兵に規律がなかったといった点にも求めたことが特徴的です。
ここには幕末の尊皇思想の萌芽、前期水戸学の思想が見て取れるでしょう。

続いて幕末の学者にして思想家である頼山陽の後鳥羽院評を紹介します。
山陽の思想は幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えました。
著書『日本政記』より引用します。

上皇は、志あるの君と謂ふべし。(中略)故に吾れ上皇を以て、志ありて謀なしとなすなり、その挙の如きは、則ち非ならざるなり。(中略)王権の日に去るを坐視し、祖宗の旧物を放ちて恤へざるは、可ならんや。
(=後鳥羽院は志を持った君主であると評価すべきだ。私は、後鳥羽院について志はあったが戦略は欠如していたと考えており、挙兵自体は理に適うものであった。天皇の統治権が衰えるのを座視し、皇祖皇宗の伝統が失われることを憂慮しないことこそ適切ではない。)

頼山陽の後鳥羽院評は「志ありて謀なし」の一言に集約されていると言ってよいでしょう。挙兵の行い自体を正統なものと全面的に評価し、徳治主義からも解放されています。
私の考えはこの頼山陽に近いです。

こうして後鳥羽院が隠岐に流されて以降、尊皇論が高まる幕末期まで長い時間をかけて後鳥羽院の評価はゆるやかに上がっていたことがわかります。
明治になって幕府が消滅し、天皇の権威が高まると後鳥羽院の評価はさらに高まり、「九条廃帝」が歴代天皇に加えられて「仲恭天皇」となり、さらに大正、昭和には後鳥羽院の計画に加わって死罪となった公卿たちが「承久殉難五忠臣」として顕彰されるということになります。

戦後~現代の後鳥羽院の評価

こうしてゆるやかに高まった後鳥羽院の評価も、昭和20年の敗戦によってリセットされ、その後のマルクス主義史観の影響の強い歴史学、歴史教育の中では低い評価であったと言わざるを得ないでしょう。
武芸にも興味関心を持つ変わり者の天皇、そしてその興味関心が破滅を招いたという後鳥羽院の評価は決して珍しいものではなく、今もそういう考えの方は少なくないように思います。
しかしこの考えは、明治から昭和戦前期にかけて天皇が陸海軍の大元帥であり、日本の敗戦を招いたという考えを安易に転用しているだけのように思います。
そしてこの考えは、「変わり者の天皇=当たり前に備わっているべき徳を有さない天皇」という幕末期には脱却していた徳治主義の亜種でしかありません。

昭和天皇について「大元帥として軍を統帥する立場にあり、日本を敗戦に追いやった」という一面的な評価をする人は今やほとんどいないでしょう。
後鳥羽院についてもこれは同じです。「承久の乱」とその結果だけで評価することは適切ではありません。
あらゆる事物に真剣に取り組んだ天皇であったからこそ、後鳥羽院の評価も様々な視点で考える必要があるように思います。

本年は承久の乱から800年。
つまりは後鳥羽院の隠岐遷幸800年です。
最後に後鳥羽院顕彰事業実行委員会の動画を掲載させていただきます。



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