『私の家政夫ナギサさん』相原メイはデミロマンティック説|デミロマンティックの私に見える世界
今日、TBSドラマ『私の家政夫ナギサさん』が終了した。
このドラマ、共感できる部分がとても多かった。働く女子にありがちな悩みを描いたドラマとして受け止められているけれど、実はもっと深いメッセージが読み取れるのではないかと思った。最終回を迎えたこのタイミングで、デミロマンティック(感情的な繋がりを感じる人にしか恋愛感情を持たないこと)というキーワードと共に『わたナギ』について語りたい。
ご覧になられてない方のために簡単にあらすじを説明すると、製薬会社のMR(営業)としてバリバリ働く28歳の相原メイが、妹の紹介で50歳のおじさん家政夫・ナギサさんを雇うことになり、お互いに段々と惹かれていくというお話。
はじめは、ナギサさんのかわいさに癒されながらクスッとできるほのぼのコメディとして楽しんでいたが、先週の第8話のメイちゃんの言動には、「もしかして主人公はデミロマンティックなのでは?」と思う部分があった。
それは、ライバル会社のMR・田所さんに告白され、返事を出来ずにいるメイちゃんが仲の良い同僚・薫に相談するシーン。
「どうやって恋愛したらいいかよく分かんなくて。今まではなんていうか、周りが恋愛してるから私もしなきゃって、なんとなく付き合い始めて、気がついたらなんとなく終わってた。たぶん恋愛に向いてないんだと思う。人を好きになるってよく分かんなくて。」
薫には「そこから?」って驚かれるメイちゃん。(薫は積極的にマッチングアプリを活用したり、田所さんに一目惚れしたり、恋愛に重きを置いているメイちゃんとは対照的なキャラである。)
さらに、一人になると、
「田所さんのことをもっと知ってみる?二人で出かけたり、手を繋いだり、、ダメだ、全然想像ができない。もし私が恋をして、誰かと真剣に付き合って、いつか結婚する日が来たとしたら、今の生活はどうなるのだろう?」
と悩むのだ。
これは、まさにデミロマンティック(またはAro/Aceのスペクトラム上にいる人)が日々感じている不安ではないだろうか?
私のような人間にとって、周りにいる人に恋人が出来て、そういったエピソードを話されることや、私の恋愛事情を尋ねられることは本当にプレッシャーだ。だからといって誰かに告白されたとしても、私もメイちゃんと同じで、顔がいいとかスペックが高いなどという理由でとりあえず付き合ってみるという選択は容易にできない。そもそも、顔がいいとかスペックが高いというポイントを恋人に求めていないとも言える。そして、とりあえず付き合ってみる人のために、自分の生活を変えることなんてできないのである。
また、家政夫のナギサさんに対して、最初は“おじさん”であるという理由で避けようとしていたが、仕事の相談に乗ってくれたり家族の仲を取り持ってくれたり、何度も助けてもらううちに潜在的に惹かれていく様子が描かれていた。
20歳も年の離れた人に恋愛感情を抱くことは、「普通ではない」と思われるかもしれない。でも、感情的な繋がりや信頼感に重きを置くデミロマンティックの人であれば十分あり得ることだと私は思う。
薫のように、恋愛に積極的で一目惚れもするようや人が、このドラマをどのように捉えているのかが気になる。やっぱり、若い女性がおじさんを好きになるなんて、フィクションの世界の話だと思われるだろうか?
先に死んでしまうかもしれないし、介護で未来を潰してしまうかもしれないと歳の差結婚に尻込みするナギサさんを、その都度問題があれば話し合って解決すればいいと説得するメイちゃんの言葉には、そんな世間の声を跳ね除ける力強さがあった。
型にはまらない、メイちゃんとナギサさんが結ばれるハッピーエンドには、恋愛や結婚はどんな形だって良いのだという強いメッセージが込められていると感じた。お互いの将来を考えて別れよう、みたいな従来型のモヤモヤする終わり方じゃなくて良かった。本当に清々しい、夢のある物語だった。
歳の差、性別、収入格差にとらわれない、メイちゃんとナギサさんみたいな恋愛や結婚の形が、もっともっと自然に受け入れられる世の中になりますように。
恋愛しない人が浮かない世の中に変える活動をするために使います。エッセイ以外にも小説を書いたり、歌も作っています。