見出し画像

武蔵野夫人

[2010年1月10日の日記]

公開年度:1951年
監督:溝口健二

一度映写したことがあるけど、ちゃんと観るのは初めて。

ちょっとだけ成瀬巳喜男の「乱れる」を連想させるストーリー。年下の身内同然の男性から寄せられた思いに、応えたくても応えられないという設定が似ているからだろうか。とはいえ似ているのはそこだけで、エンディングも「乱れる」とは正反対だ。

同時に、このストーリーはジッドの「狭き門」に似ていると感じた。特に田中絹代演じる道子の浮世離れした真面目すぎる愛の形が「狭き門」のアリサを思い起こさせる。

アリサはキリスト教徒として神の示す道を選んでいて、一方の田中絹代の行動の背景に宗教は全く関係無いのだけど、でも人と人とが美しく尊く愛し合うということは思いのほか難しいことで、何がそれを難しくさせているのかというところを深く追求するうちに「現世で愛を成就させること自体が困難なのだ」という結論に至るその過程は何となくだけど共感できる部分もある。

ところで田中絹代が以前インタビューで「溝口健二は生前あなたに恋してたと思う」と指摘され「きっと先生は、スクリーンの中の役に恋をしていたのです」というような返答をしていたけど、この映画を観ると納得してしまう。この映画の道子は溝口の求める女性の理想像なんだ、と考えると妙にしっくりくる。

田中絹代が監督業に乗り出そうとしたとき、溝口健二が「田中のアタマでは監督はできない」という辛辣な言葉を残した逸話は有名だ。その発言がきっかけとなって溝口と田中は決別状態になったという。その発言の真意は当の本人にしかわからないけど、本気で田中絹代の資質不足と考えていたのだろうか、と疑問に思う。むしろもっと子供じみた、単にスネてるだけの発言と解釈した方が自然ではないだろうか。

溝口がイメージする理想の「田中絹代」は、監督のような立場でバリバリ映画を取り仕切るような女性であってほしくなかったんじゃないか、だからその現実を受け入れたくなくて、そんな言葉を口にしてしまったのではないか、と僕は思う。だから田中絹代の発言も「溝口健二が恋していたのは、一人の人間としての田中絹代ではなかった」と意味で解釈することもでき、そう考えると妙に納得できてしまう。お互いに好意を抱いていながら、お互いに求めるものがすれ違ってしまった。そんな風に見える。

ところでこの映画の森雅之は鼻持ちならない女好きのインテリ俗物男を演じている。女好きとか女にだらしないとか、そういう役どころを演じることが多かった役者さんだけど、この映画では見栄やプライドは人一倍ながら、ツメも甘いし、口説いた女もイマイチなびかないし、なんとも間抜けで情けない役どころだ。そんなしょうもない男もきっちり演じて観る者をイラつかせる手腕は実にお見事。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?