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矛盾しながら微笑んで

岡本太郎氏の作品に「午後の日」という作品がある。

私はこの作品が大好きで、LINEのアイコンなどにも使用しているのだが(「気味が悪い」とよく言われる)、なぜこんなにも心惹かれるものがあるのだろうか。

一見可愛らしい平和的な笑顔。
彼の作品には珍しく、穏やかな雰囲気を纏っている。

だけど、その顔は真っ二つに分かれていて、両手で離れないように必死で押さえているようにも見える。引き裂こうとしている、という解釈もあって面白い。
彼の墓碑にもなっていて、「対極主義」を象徴的に体現している有名な作品である。

昨年、中之島美術館で開催された岡本太郎展で改めて鑑賞した際に「生きていくって、つまりこういうことやんなぁ」と、強烈にほっとしたというか、心が救われるといった体験をした。



「言ってることとやってることが違う」
「思いと行動がずれている」
「前はこう言ってたのに」

そんなふうに、「自己矛盾」はネガティブに捉えられ、他人や自分を罰することが日々の中で多いのではないだろうか。

私自身も、幼少期から今に至るまで、様々な場面での悩みや苦しみの根底には、ずっとこの自己矛盾があった。


ひとつ例をあげると、音楽との関係がある。
学生時代から17年間、オーボエを演奏する、ということを続けている。  

単なるアマチュア奏者だが、オーケストラの本番は100名近くの団員とともに数百名の観客の前で一曲何十分もある長い曲を演奏する。
楽器の性質上、ソロも多い。

私は人前に立つのが苦手で、大勢の人間の中にいるのが嫌いで、1人が好きで、集団行動は可能だが好きではない。
自身の特性とやっていることが、真っ向から対立している。(ちなみにそれは本職でも然りである)

基本的に練習は人が多いから憂鬱だし(行くと楽しい)、人間関係は面倒臭いし、だいたい演奏会の3週間前くらいから舞台に立った時の悪い妄想しかできず、末端冷え性に拍車がかかり、ままならない地獄の日々を過ごす。
一言でいうと不快。向いていない。
常々、早く辞めちまえと自分にツッコミを入れながら続けてきた。

実はコロナ禍で約2年間、オケの出演も断り楽器から完全に離れていた期間があり、休みの度に人の少ない島などを旅したり、1人で読書に耽ったり、非常に快適に過ごすことができていた。

だけど最近、私はまたオケに戻ってきたのである。
そこには自分なりの理由や、続けるだけの「何か」があるのたが、行動だけを見ると本当にめちゃくちゃである。
(オーボエのことや、その「何か」については、またいずれ書きたいと思う。)

つくづく、人間は「快」だけを追い求める存在ではないのだなと感じる。

書いていると自己矛盾というよりただのドMなのでは…?と思わなくもないが、人と音を合わせたい気持ちも、1人で気ままに遊びたい気持ちも、両方自分の本音なのだ。

生き方や発言に一貫性があることは立派だと思う。同じことをずっと続けられることもすごいと思う。
だけれども、人間はいつもそんなに簡単じゃない。

矛盾を重ね、ばらばらになりそうな自分を必死で繋ぎ止めながら、間抜けな顔で微笑みながら生きていけばいい。
自分に嘘をついているような気がしたり、人を傷つけてしまったり、そんな苦しさに顔が歪むこともあるけれど、苦しさそのものは否定しなくていい。
いろんな葛藤を経て、今は少しだけそう思えるようになった。

多様性を認めよう!と叫ばれて久しいが、その本質は、多数の人間をカテゴライズして認めた気になるのではなく、1人の人間の中にある多様な人間の存在を認めることにあると思う。

一個体の中にいろんな人が同居するのが人間であるし、だからこそ面白い。
(私にとって、そのトップランナーは岡本太郎とジョン・レノンだ。)
それを否定してしまっては、少し生きるのがしんどい。

そんなふうに、人間の根幹に触れさせてくれる岡本太郎の芸術は、いつだって心強い。

矛盾と不安をエネルギーに、私は今日も、間抜けな顔してオーボエを吹く。

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