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きわダイアローグ01 芹沢高志×向井知子 3/4

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3. 点—連続と境界

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3-1. 瞬間のシークエンスとしての映像

向井:ある時代までは、映像イコール映画の歴史だったと思うんです。わたしはそれに、ものすごく違和感がありました。余談ですが、わたしが映像をつくるとき、実写の動画を撮って時間軸でつなげるということができないんですね。特に、時間軸で編集するアプリケーションで映像をつくれないんです。アルゴリズムから制作するときもありますが、実際の世界を撮影して素材にする場合には、撮影動画からつくることは少なくて、静止画からつくります。それは、映像が瞬間の空間軸でできているものの連続だって思っているからなんですね。先ほど数学の話が少し出ましたが、わたしは子どもの頃から0と1の違いにすごく興味がありました。1って究極の奇跡の瞬間点だと思っていて、その周りには1になる無限の未満やその先が存在して、ものすごい揺らぎがありますよね。それを想像して途方に暮れているようなところがあったんです。映像も、瞬間瞬間に立ち上がった、神籬や磐境に降りてくる神さまみたいなものと同じかもしれない。ある瞬間にバッと体験としてのシーンが立ち上がって、たまたまそれが連続して集積していくようなものが映像だと思っているところがある。つまり、偶然の瞬間の体験の積み重ねだと思っているんです。

芹沢:シークエンスですね。最近、物理学に今さらながら興味を持ち始めたんです。古くて新しい難題ですが、連続しているのか、離散的なのか、とか。それこそ量子は粒なのか、波なのかから始まり、今、一応結論はついて、なんとなくわかったようなわからないような量子力学的な世界が確立していますよね。以前は世界が粒でできているというより、連続しているほうがしっくりくるんだとずっと思っていたんです。でも、同時に、連続とは言いながらも、魔物みたいなもので、考えれば考えるほど気持ち悪いというか、よくわからない。となると、世界がつぶつぶでできていると考えるほうが、面白いというか、もしかすると納得できるのかもしれないと思うようになった。粒が、振動する弦だと考えると、それはそれで納得がいったんです。それで、時間なんてそもそもないんだとも思いました。時間の概念は我々にとって、感覚的にものすごく大きなものじゃないですか。映画の話に戻ると、映画やフィルムといったものは、いかにも連続した連なりのように見えていますが、実際にはコマの塊や重なりでできている。そういう、一つのシークエンスを、あるところまで行って振り返ったとき、プロセスというか、一連の重なりを認識するというようなやり方で我々は生きているような気がしています。我々の感覚として、一方向に方向性を見出すほうが戦略的に有利だから、時間が一方的に流れていくと感知するようになったのかもしれないという説もある。この辺りの話は、詭弁がごっちゃになっていると思いますが、やはり映画というと、どうしてもストーリーが前提にあって、それを追っていく形になっています。納得できる、直線的なストーリーが、すごく重要な意味を持っている。でもそれは、別に映像の本質でも何でもなくて、一つの手法なんだと思うんです。

向井:シークエンスという話がありましたけれども、当時はコンピュータ・グラフィックスを使っていましたが、全部を決めきってつくることは、技術的にまだできませんでした。プレビューの画面の解像度が本当に小さい数百×数百のもので、しかも、ギザギザが残ったまま、見るわけです。コンピュータにしてみれば、パラメータを決めた段階ですべてが決まっているはずなのですが、つくっている側の感覚としては、本番のレンダリングは焼き物を焼いているような感覚で、お釜に入れると、自分の追えなかった想像の範疇を超えるディテールが生まれてくる。そこにものすごくリアリティを感じていたところがありました。点と点の相互関係を究極までつないでいったら、急にそういうものが生まれた瞬間に出会った、そういう感覚がありました。

今、スヴェン・ヒルシュと話をしていてハッとするのは、90年代以降につくれられた我々の身体性と思考法についてです。ある時点までは、絵の具でパースを描いていた大学時代までの身体的な記憶で、ものをつくっているのかなと思ってきたところがあるのですが、わたしたちは20代で、アナログからデジタルへの移行をリアルタイムで感じていた世代で、デジタルが出てきた際の身体性が新たにあると思うんです。
最近、ある卒業生が「デジタルがアナログに近づいている」という言い方をしたんですね。それは俗に言う、デジタルによってこの世知辛い世のなかになったので、アナログに、昔に戻りましょう、という話ではなく、彼のなかにすでに今のメディアも含めた環境下でつくられた、デジタル的な知覚の仕方や考え方に根づいたアナログな身体性があるのかなと思いました。
ヒルシュとの会話のなかでも、彼は「連続体として世界を見るか」「離散的に世界を見るか」、どちらかを否定しているつもりはないのですが、ただ明らかなのは、すごい速度のなかで、0と1を分けて、ディテールまで分化していく思考性みたいなものが、我々のなかに、根づいているだけではなくて、身体化もされてきていると言うんですね。その身体化が何なのか。わたしたちのなかにある、いわゆる0と1で還元できないようなものと、離散的に刻まれてしまったものと、未来予測で滝の話がありましたが、究極の段階の揺さぶりのなかでどうなっていくのだろうか、また何か別の可能性が生まれるのかということに興味があります。

3-2. 我々のビオトープ

芹沢:パーソナルなこととコレクティブなことの関係もありますね。全体とか一体とかいうのは容易ですが、あえてコレクティブという言葉を使うことには意味がある。一体という言葉では表現できない、非常に集合的な個もある。それは烏合の衆というか、ただの集まりということでもないと思います。そういう新しい全体の見方みたいなものは、一元的でもなければただの足し算でもなく、言い表すのが難しいですね。おそらくこれは、地域の芸術祭なんかでも散々出てくる、ローカルとグローバル、サイトスペシフィックとユニバーサルという問題とも通底しています。でもこれは、酸性・アルカリ性のようにグラデーションになっているものだと思うんです。それも一つのきわなのかもしれない。二つの方向性の間でせめぎ合い、揺れ動く境界、インターフェースがあるのでしょう。みぎわみたいな言葉もそうで、さっきまで岸だったところが海になり、再び岸が現れるような、ユラユラした境界面。点滅しているみたいにこっちになったりあっちになったりする、多義的な領域。そういうきわというか、境界部分が一番、僕自体も興味の対象であり続けていますね。

向井:都市や生活を撮影していくと、都市のありように、生命科学分野における人工生命やクローンのように、新しく生命を人間がつくれるのかどうかということと、同じようなことが起きていると感じるんですね。それの拡大図なのか縮図なのかが、見えるようになってきている一方で、それには収まらない、自生していく自然の揺らぎみたいなものを感じて、興味をもっているんです。そのあたりを、きわプロジェクトを見た人にとって想像してもらえればいいなと思っています。とてもわかりやすい例としては、北欧に、ソーラーシステムをすごく丁寧に取り入れてつくった学校があったんです。

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Copenhagen International School
デンマーク・コペンハーゲン市

それはベイエリアに建っていて、ファサード自体も海や空と馴染むようにつくられている。わざわざ真っ青なソーラーパネルを特注して、見た目にも機能的にも周辺環境に馴染み、環境エネルギーに配慮した建物で、そこで子どもたちは育っていく。それは今のテクノロジーを最大限に活用して、自然に寄り添いたいという、ある意味人間の善意でもあり、実際に馴染んでいて、風土のようなものが生まれているところにすごく興味を持ったんです。でもどこか残る違和感もある。そんな疑問を持ちながら、日本に帰ってきて、北九州のエコタウンなどに取材に行ったんです。北九州は、高度経済成長の時代に公害の街として有名になってしまい、それへの反省から今一生懸命エコタウンになろうとしています。それもあって、ベイエリアの埋め立て地にエコタウンがあるんです。都市部として最大の風力発電があり、ソーラーシステム、バイオマスの工場などができている。それも、一生懸命、人間が自然と寄り添いながら進もうとしている意思であったり、理想としている姿なのですが、面白かったのは、そこにあったビオトープです。

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響灘ビオトープ
福岡県・北九州市

そのエリアにあるビオトープは、実は人間がつくったのではなく、埋め立て地に雨水が溜まってできた場所なんです。もともとはそこを埋めるつもりでいたらしいのですが「一応地質調査をしておきましょう」ということで調べてみたら、絶滅危惧種などが生息し始めていたんですね。そこは、埋め立て地なので、数十センチ掘ればゴミなわけです。風景のなかには風力発電の風車やソーラーシステムが見えていたり、バイオマスの建物が立っている。最先端のテクノロジーを使って、人間が自然の力と一緒に共存していきましょうとやっているときに、勝手に絶滅危惧種たちが生息してしまっている。その、ものすごくシュールな姿を見たときに、果たして、我々が自覚的にどこかに行こうとしていることは、ちゃんと結果に伴ってくるのかなと思ったり。芹沢さんが先ほどおっしゃっていたように、もしかしたら予測は、あとからついてくるものなので、考えてもしょうがないのかもしれないですが、そこに揺さぶりをすごく感じたんですね。そういった揺さぶりの感触について取り組みたいと思ったのがきわプロジェクトの発端なんです。

芹沢:この間、港千尋という写真家と話したときのことから、「都市、野生の王国、自動人形」(対流圏通信11、P3)という文章を書いたんです。そのなかで、我々がつくり出してしまった、我々人間のビオトープと、それから野生と言われているものと、非接触型のテクノロジーから始まって福島で動いているロボットやAIといった自動人形、そういったものの力関係が、このコロナ禍でずいぶん変わっていっているのではないかという思いを書きました。自分で自分たちのビオトープをつくり出した生物という意味で、人間はかなり特殊です。そこからの干渉が無視できなくなれば、地球全体が気象や水、大気や温度を通して調整を始めるから、やはり極端な動きが出てきます。今まで考えたことがないような激しい気象など、これからどんどん広がっていくと思うんです。それに、我々のビオトープが、ここまで世界に広がってしまった以上、その他の生物、これらをわざと野生と呼んだのですが、そういったいろんな生き物のビオトープと思わず接触してしまう機会が増えている。深い洞窟に住んでいるコウモリのビオトープと、我々が接触するというのは、やはり普通の事態ではありません。熱帯のジャングルで生きている細菌やウイルスは、そこの野生動物たちとバランスをとって生態系を形作っているわけですが、ここに土足で侵入して大規模なプランテーションでも建設しようものなら、風土病がパンデミックになることも十分考えられます。現在のコロナ禍は、我々の人間活動と無関係なわけはありません。そうなった以上、今までのやり方はどうしても減速させなければならないでしょう。それこそ野生の王国から、どんどん圧力がかかっている。それに従って、我々のビオトープも変容せねばならなくなる。例えばこのコロナ禍における、我々のビオトープ内の変化としては、人の濃密な接触が感染可能性を高めると言われる以上、非接触型の技術がどんどん力を増していくと思います。それから、過酷な状況が全世界的に広がっていますよね。そうなると福島で働いているような過酷な環境用のロボットたちが、もっと一般的になっていくと思います。住宅展示場で案内をしたり、ホテルのフロントを務めたり、接客業をロボットが担うようになるかもしれません。今のところはまだ、書かれたプログラムに従って動いているような自動ですが、その人形のなかには状況を自律的に判断して対処をしていくようなものも、今後は出てくると思います。そういう自動人形に、人間がどんどんどんどん置き換えられていく。このパンデミックの状況において、我々が思っている以上に、そういう人形たちが我々のビオトープを動かしているという事実が可視化されていくと思います。野生の力もどんどん強くなっている。我々と野生、自動人形の力関係が大きく変わりつつあると思うのです。

3-3. 影と「うつす」こと

向井:そういえば、芹沢さんは「ランドスケープ」という言葉を使われますが、わたしは映像をやっていることもあって「光景」という言葉で意識しています。映像の「映」という字は、影響や影(かげ)の「影」という字でも書きますよね。「影」という字は景色の「景」とさんづくりで成り立っている。「景」という字は、昔、軍門や見晴らし台など、見渡せるような場所からの眺め、あるいは屋敷の観察など、眺めに関する人工的な構築されたものを意味しているんですね。そこにさんづくりの光が当たっている。それから、「影」という字は鏡(かげみ)の元になっていて、人の姿を投影しているものなわけです。

芹沢:さっき触れた自分の文章でも「影」というのが重要で、ゴーストとも関係しているのではないかということを書いたんですね。「目に見えない」という言い方でいいのかはわからないのですが、影を落とす何かがある。我々は、その影によって何かを感知しており、影を察知する能力みたいなものについて、生物的に培ってきた部分はすごくあると思うんです。それはたぶん、我々の生存と密着した力です。単純に何でもリモートで置き換えてしまうと、我々の生存能力に関わる部分が萎縮していくかもしれません。あくまで可能性の話ですが、そうなってしまうとやばいなという気はしています。

向井:大学で授業をしていた頃、年度の初めには、まずプロジェクションの話からしていたんですね。その際、先ほどお話しに出た港千尋さんが、打楽器奏者の土取利行さんとフランスの洞窟に入られて、NHKスペシャル「闇に残されたメッセージ〜人類最古・洞窟壁画の謎」で放映された話を例示として見せていました。そのなかのエピソードに、ネガティブハンドに息を吹きかけて、初めて像がイメージが浮かび上がる、その行為をプロジェクションというというものがあるんです。学生にはそれと同時に「日本語の『プロジェクション」にあたるもの、『うつす』とは何なのか?」という話をしていました。「うつす」には、映像の「映」もありますが、写真の「写」、移動の「移」、遷都や遷宮の「遷」という字などがありますよね。まずは漢字を出して、次にそこから思いつく単語をどんどん出していく。その際、すべての「うつす」行為に介在するものとは何だろうという話をするんです。「写真」や「写生」の「写」、「移動」や「移行」の「移」などは必ず挙がるのですが、病気や遺伝子の「転移」、神さまを移すという意味の「遷宮」などもありますよね。それらの言葉に介在しているのは人間の姿、生きているもの、生命なんです。そして、どの漢字の「うつす」をとっても、どこかユラユラ動いている。「うつす」行為には、いわゆる映像の「映」、視覚的に「うつす」ことだけではなく、いろんな意味で生命を「うつして」いくことが含まれる。そして今はやはり、移動の「移」に当たるところの意味がすごく問われているなと感じました。改めて「うつす」という行為のなかには、視覚的なものだけではなく、精神的なもの、物理的なものとすべて入っているんだなと思います。

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