オモテだけではわからない piece_vol.80
わたしは
あたりまえのように訪れる
なにごともない
ごくありふれた
平和な日常のせかいを
愛しています
気付きというものは面白いもんで、同じ案件というか同じ出来事・事柄、うーん、いい言葉が浮かばないな。テーマとでも言いましょうか。1つの思い癖について、何層にもなっていて(いや、実際に層はないですけどね)、上のほうをお掃除したと思ってもまたその下にあったのがピロピロ~っと出てきたりします。
掴んでるのが強いほどそんな感じのようです。
今朝も起きがけに「ああ、そうか。」となったのですが、ん?と思い辿っていくと、それってずいぶん前にクリアーにしたやつだよね?ってなり。
だけども「ああ、そうか。」は新しいやつだったので、はて?となり。
そのまま放っておいてもよかったのだけど何となく分解してみたら、以前手放したやつの更に奥にもぐってたやつみたいで、あららと。
以前手放した時も何層か下のやつだったので、もうないだろーと思ってたらトコロガドッコイ。
しかも逆転バージョン(笑)。これは言葉で現すのは難しいので略しますが、その事に対して自分はこう思っていたんだーを手放してたのに、その下から出てきたのをクリアにしたら「えっ?そう思ってたの?!」と真逆のものが現れてきたという。
自分が自分にビックリ。笑っちゃった。
何て言うんでしょうかねー、本当に蓋を閉じてしまいたい「思い」には、その時そのまんまのものに、どんどん記憶という形で違うものを被せちゃってるんじゃないかしらんと感じます。
だからそれを、玉ねぎの皮を剥くようにピロピロ~と1つずつはがしていく。
でもそれは、そのタイミングが来ないと次のは訪れない、みたいな。先にあっちほどいてからーとか。
先ず「点」を置かないと、点と点で「線」にはならないから。
そんな深底あったやつならさぞかしヘビーでしょうとかいうとそうでもなくて、もっと上のほう、何なら始めの1枚目がよっぽどイタタで、その後はもうわかっちゃってるから「ああ、これのやつだったのか」くらいなもんで。
下のほうのが出てくれば出てくるほど、「それにしても本当によくアッチコッチと絡み合ってややこしくなってるなー」と感心します。まー、よくできてること。スバラシイ。
ほんでね、なんでこんなにややこしや~なのかと。
本来のジブンに繋がっちゃうからなんだろうなーと感じます。自分軸、真ん中のジブン、そんなものに繋がりやすくなるから。
でも"ぜんたい"が変わってきたことでそれらも変わってきて、ポヨヨーンと簡単にお掃除できるようになってきて。
怖さや不安、自分のなかのみたくないもの、それらの奥には「本来のジブン」がひろがるナニカが隠れてます。
それがどこかでわかっているから、怖さや不安などで敢えて目隠ししてるんですもの。
そういうもんなんだーって解っちゃうと、恐れとかの出来事が現れて一瞬「うっ!」となっても、思考の渦に巻き込まれずに「うーん・・向かい合ってみようかな」ってなってきます。
自分に真っ正面から向かい合えるように、少しずつでもなってきます。その人のリズムで。
今回の訪れで「恐れ」に対面しそれを観たとき、わたしの中に湧いて来たのは「ああ、こんなのもまだ持ってたんだー」という思いと、安堵でした。
出してあげられたなー
気付いてあげられたなー
これでまた軽くなるなー
よかったなあ
という安心感。
軸となる「恐れ」を見つけたとき、なぜだかホッとする変なヤツです(笑)。
恐れ の裏には
安心 が待ってるから。
だから
自分の"軸となる恐れ"
が出てきてくれたのは
私にとっては
ジブンの真中の
安心 がひろがる
ギフトなんです。
ほんとうに
摩訶不思議な
このセカイ
まだまだ
愉しいことが
たくさん始まりそうです
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。