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写真の哲学はやりつくされたので、つぎの地平、多分野との接続を試みる段階にあると、感じる。

日本の写真哲学やそれに伴う実験は、特に「プロヴォーク」やその時代において、相当やりつくされている。中平卓馬も、森山氏も命を削ってしまったくらいだ。

それを写真について「哲学がない」と一蹴するのはいかがなものだろう?

そういう論調を見たので書いている。

理屈は結構なので、実践と並行して何かのアウトプットをしてほしいと願っている。


そもそも、「プロヴォーク」を解釈するには、思想的支柱である「岡田隆彦」の「危機の結晶」に目を通すのは、一般的教養に属する。そして、中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」の第一章を解釈しないと、写真の哲学についていうのは結構だけれど、知らない事による損害が社会に対して大きいのではないか?

「ロラン・バルト」の「明るい部屋」も実践の参照として有効であるし、現代では「ヴィレム・フルッサー」の「写真の哲学のために」もデジタル時代には特に重要だ。

古典で云えば「ウォルターベンヤミン」の「複製技術時代の芸術」についても随時参照した方が良いだろう。写真に哲学がないというのはちょっと解せないのだが、写真には「シュルレアリスム」の影響も無縁ではない。そうなれば日本であれば「瀧口修造」を無視もできないし、海外で云えば「マックス・エルンスト」や「自動記述」の実験を試みた「アンドレ・ブルトン」の両名を見ないで写真の哲学は語りにくい。

アウラ的な表現の発露である写真に関する事を実際に見て理解するには「長谷川明」の「写真をみる眼」も無視できない。それは「深瀬昌久」の「鴉」に継承されているからだ。そもそも写真にアウラ的な要素がないというのは暴論である。

もっとも最近の割と理解しやすい一冊をあげるなら「清水真木」の「新・風景論」をおススメするし、逆張りでいくなら反面教師として「プロパガンダ誌」の【「写真週報」にみる戦時下の日本】も、見なければならない。

もっとも、写真家の肉声やインタビューなどを収めた「鳥原学」の「時代を写した写真家100人の肖像」は、各写真分野の取り組みのエッセンスがインタビューから抽出できるだろう。

私は実践的な写真をするものである。しかし、編集者や資本にコントロールされがちな表現者の姿も参照している。

バンクシーを例に出そう。

彼は、ペインターだが、いわゆるアウトサイダーアートでパブリックなロケーションの「壁面」に自由にペイントをするひとからスタートしている。

もはや映画化?映像化されているので、その履歴について省略するが、最終的には、その資本の象徴である「サザビーズのオークション」の現場で、「風船と少女」の作品を落札の瞬間に遠隔操作で「シュレッダーにかけた」のは有名な事だ。それも装置が故障したので半分までしかシュレッダーが機能しなかった。という言説も(本人であろうと)、怪しいものだ。

勝手な解釈だけれど「さて、この金の亡者(ファンタジーの住人)は、半分裁断された作品をどっちに転がすかな?」と、高みの見物をしているようにも見える。

それが、作品の哲学性でったり、写真にも似たような事が云えるだろうと私は考えている。

それくらいスマートでパワフルにしなければ、世界にものを云えないだろうとおおよその自分の感性が認識をしている。

(「バンクシー」はAmazonPrimeVideoで検索したらよいだろう)

確固たる意思と哲学を基盤に写真を構成するものほど、撮影の現場では「プリミティブ」な、動物性としての人間の本然さが要求される。そうでなくともよいのだけれど、個々人が何かを「論拠に基づいて価値創造」するなら、「哲学性」と「実践」とのバランスが欠かせないと私は感じている。

そういったものは、美大やその手の学校の中でやっていたことを、その枠から「芯を残しながら」開放していかなければ、私のような一般人には相当の困難である。

結論を云えば、「言うは易く行うは難し」でもあるし、それにチャレンジしないというのは、国際的な文化文脈で言えば評価軸に乗ってこないのだ。


まずは、今までの先人諸氏の表現行為のをある程度は観ないとならない。ゼロからイチは生まれないのが人類だ。
ただ、命を削ってもすり上げた「イチ」(失礼は承知だ)から、次の価値拡張を「現代社会の諸相(変容的)」と「自らの絶対値としての哲学性」を結合させ、さらにそれに「普遍性」をもたらすにはどのようにしたらよいか?

その助けになるのが、私の場合は参考書籍は多くはないが「先人の残した写真への解釈や哲学」であり、自らのフィールドワークの解釈を実行する際の無意識の基盤になると感じている。

また、商業主義と文化としての表現の相克は、終わる事はなかなかないのだから、その中で「自らの表現の手綱を手放さない事」はもっとも重要だろうと感じている。コピーバンドはやめた方が良いと感じている。それは最初の一歩で十分ではないか?

もうひとつ云うなら、いまは写真界の「師弟関係」という言い回しはそろそろ野蛮なので、さやに収めた方が良いだろうと思う。また、「無知の知」は私も含めて、何れの場面でも有効だ。知らない事の方が世界には多いのだ。