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書籍紹介 中西嘉宏「ロヒンギャ危機ー『民族浄化』の真相」

↑おすすめ本の紹介です。

昨年、第16回樫山純三賞(一般書部門)・第33回アジア・太平洋賞特別賞・第43回サントリー学芸賞(政治・経済部門)を受賞した中西嘉宏准教授の「ロヒンギャ危機ー『民族浄化』の真相」。東南アジア地域研究者の作品としては、珍しいメインストリームの学芸賞を複数受賞した新書だ(地域研究に従事している私が自分で言うとやや自虐的かな)。

これだけ高く評価されている作品なので、書評や著者のインタビューはいくつも出ているので、今回は、東南アジア史、特に地方の紛争を扱っている歴史家(東ティモールやフィリピンのミンダナオを研究し、指導教官はミャンマー史の専門家)としてどういう風に読んだのか手短に書いておこうと思う。全体的な印象を先に書いてしまうと、センシティブな話題を簡潔に、しかも絶妙なバランス感覚で扱っている作品として、とても感銘を受けた。いわゆる「ロヒンギャ問題」、ミャンマーのラカイン州における「民族浄化」について学び始めるには最適の作品。

↑著者のインタビュー

↑サントリー学芸賞の選評

問いとしては、2017年8月頃から始まるミャンマーのラカイン州の「ロヒンギャ危機」とは何だったのかなぜ、どのようにして、何が起きたのかを明らかにしようとする作品。本の構成は、大まかに言って時系列的に配置されていて、第1章から3章までが、イギリス植民地時代から2010年代までの経緯で、ミャンマーという国家とその国民意識が成立し、変容していく歴史過程の中で、どのようにラカイン州という地域とその地域でも少数派に当たる「ロヒンギャ」が他者化されていったのかが説明されている。第4章が2017年8月以降に発生したロヒンギャ危機において「何が起きたのか」を扱っており、主に難民からの聞き取りに基づく国連人権理事会側の報告書、紛争の詳細やミャンマー軍の動きに詳しいミャンマー政府側の報告書の両方を比較することによって中心的な語りを成立させている。第5章は、「ジェノサイド疑惑」がどのように国内・国際政治において扱われたかを問題にしている。

第一章は、いわゆる「ロヒンギャ」、ラカイン州に居住するイスラム教徒たちが、どのような歴史過程を通して国籍の無い人々となっていったのかを説明している。ここで重要なのは、ミャンマーの主要な民族であるバマー人が、イギリス植民地主義の主要な担い手(つまりナショナリストたちの敵)として、イギリス人、インド人、中国人を見てきたということ。イギリスによる植民地主義、そして移民労働者の優位という状況の中で、バマー人たちは、(ラカイン州とミャンマーに居住する)イスラム教徒たちを「インド人/バングラデシュ系の不法移民」として表象してきた。

第二章は、ミャンマーの公的な見方としてのネイション、言語、宗教を話題とし、この主流の国民意識の中からどのように「ロヒンギャ」が排除されてきたのかを扱っている。章の見出しになっている「国家による排除」が中心的な話題。(メディアではかなり混乱されている面であるけれど)重要な区別として、著者は、「ラカイン人」と「ロヒンギャ」は別の集団だと明言している。どちらもミャンマーという国のレベルから見れば少数派ではあるけれど、ラカイン人は古くからこの州に居住している集団だと見なされているのに対し、ロヒンギャは外国人だと見なされている。歴史的にバマー人、ラカイン人、ロヒンギャの3者の間(2者間ではなく)の関係が難しい問題や緊張関係を持つものだったことが指摘されている。

第3章は、2011年からの民政移管が(意図せず)既にあったバマー人、ラカイン人、ロヒンギャの間の民族間問題を悪化させる結果になったと指摘する。それまで軍によって統制されてきたミャンマーの言論環境だが、民主化により、ローカルレベルの政治的・宗教的指導者は、一般の人々を動員するために発言し、表現する「自由」を獲得した。この文脈の中で、ヘイトスピーチや極端な政治・宗教的立場を取る指導者たちが、より広い一般民衆・聴衆にアプローチできる環境が生まれた。そして、2017年以前には既に民族間の衝突がそこここで起きていた。

第4章は、2017年8月に最初に警察や軍の施設を攻撃したアラカン・ロヒンギャ救世軍とはいったいどのような集団だったのかという問いから初めて、彼らのディアスポリックな起源(つまり外国で生まれた「ロヒンギャ」ということ)、どのように彼らは数千に及ぶラカイン州のロヒンギャを動員し、警察や軍の施設を攻撃したのかを説明している。これを国軍の方は、既に行われていた集団からの犯行予告などに基づき「国際テロ組織によるもの」を解釈し、ラカイン州のロヒンギャによる反乱でもあったという点を無視した。国軍は、「国際テロ組織による脅威」を過大評価し、過剰な鎮圧行動を9月5日まで続けた。国軍が軍事行動を停止した後、今度はラカイン人の民兵たちが、イスラム教徒たちの襲撃を続けた。このように、海外で「ジェノサイド」と報道されてきた一連の出来事には、国軍による暴力の他に、少数民族間の紛争と歴史的経緯のある憎悪、そして海外にいる武闘派のロヒンギャによるプロパガンダが関わっていた。

第5章と6章は、人権とジェノサイドに関わる国際政治を扱っている。ここでは、国軍と国際組織の間で、(国民から見れば)絶妙なバランス感覚をつらぬいたアウン・サン・スー・チーが再評価されていて、ミャンマー国内の文脈を無視した海外の報道、「ロヒンギャ危機」で起きた暴力、双方への批判が行われている。


東南アジアの周縁・国境地域の紛争(東ティモールやフィリピンのミンダナオ)の研究に関わってきた私としては、中西教授の研究者としてのバランス感覚にとても感銘を受けた。これは英語圏で研究してきたからこその感想とも言えるけれど、ミャンマーを含むアジアの「権威主義的な国家」や「紛争地域」の研究に関しては、西洋メディアソースに依存してしまうケースが非常に多い。東ティモールの場合も、ロヒンギャの場合も、西洋メディアにとってアクセスしやすいのは、難民からの聞き取りで、これはたしかに重要な史料ではあるけれど、類似の一面的な経験が伝えられてしまう。

加害者側のソース(例えばミャンマー国軍の報告書、東ティモール問題におけるインドネシア軍のソース、そしてミンダナオ紛争におけるキリスト教徒の移民・原理主義者・国軍の証言など)は、往々にして無視されるか、軽視されてしまう。もちろん、加害者を含む当事者、そして史料は嘘をつくし、物事を過大評価・過小評価する。だからこそ、被害者側のソースを重視するか、加害者側のソースを重視するかで、研究者もメディアも紛糾してしまう。

しかし、虐殺・戦争・紛争の研究に関しては、被害者側のソースを用いつつ、加害者たちの経験と言説を緻密に研究しなければ、「なぜこれらの暴力が行使されたのか」「何が起きたのか」という2つの問いの両方に答えられなくなってしまう。この点で、中西教授の「ロヒンギャ危機」は、その2つの問いに、両者のソースに基づいて、発表時点でできるかぎりの誠意ある回答を与えていると思う。この点が本書のとても良いところで、私も将来このような本を書けたら、地方の紛争の研究をしている人間としては本懐を遂げられると思う。

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