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「千と千尋の神隠し」について

久しぶりに「千と千尋の神隠し」を観てみた。気になったポイントを論じててみる。(物語の最初と最後でトンネルが変わっていることは論じません。)


千尋と親

この映画は2001年公開で、主人公の千尋は、10歳という設定。制作時期を考えれば、大まかに言って千尋は30代前半の人たちとほぼ同世代と考えていい。

私は87年生まれで、ほぼ千尋と同世代だ。千尋の両親の雰囲気には馴染みがある。おそらくは学生運動が流行りでは無くなった後に十代後半を迎えた「しらけ世代」で、バブル期に20代を過ごしただろうと思う。冒頭に出てくる「放棄されたテーマパーク」という表現は、バブル崩壊後の90年代の表現だ。

千尋の両親がほとんど娘を直視することが無いのが印象に残る。

崖の上のポニョ(2008年公開)と千尋を比較してみると、全く違う少女だと思う。欲しい物を欲しいと主張するポニョと、物語を通して「いらない」を貫徹する千尋。千尋、さすがロスジェネ最後の且つゆとり・さとり世代の最初の方である。異界の食べ物に手を伸ばして豚に変身する両親は、泡となる危険を冒しても人間と恋愛するポニョに少し似てるところがある。

歴史家としての私は、しらけ世代全体がしらけていたわけではないことを知っているから、「あー、ジブリ映画ってけっこうその時その時の既成概念・固定観念的なものに引きずられてるんだな」とか思ったりする。けれど、社会の雰囲気として千尋の両親、両親たちの「もっと成功しろ」「もっといい学校に行け」「もっと稼げ」という、既に破綻していた煽りにうんざりしている自分たちを思い出さないわけでもない。私もそういう、みんなと同じ競争を競争するのが嫌で日本を出たロスジェネの最後・さとりの最初世代の一人である。

カオナシ

カオナシを「若者」の象徴と捉えるのは、最近まで若者だった個人としては「おっさんたちのこじつけだろう」と思う。むしろ、仮面をかぶる、内部の者が招待しなければ敷地に入れない、他人の口でしか話せない(他人の怒りに便乗する、他人の言葉を使う、他人を装う)、欲望に支配され・自分も他人の欲望を利用する、あばれるという特徴は、さらに抽象化することが可能で、預言的でもある。

カオナシ的な構造のものを社会で見つけるのは容易い。例えば間接民主制はカオナシ的な構造を持っている。私達の多くは、首相や大統領やマスメディアの口を借りて話している。流行りの言葉を使って議論する。私達の欲望は、表象され、代表され、一般化される。そして、欲望が挫折すると、癇癪を起こす。

貨幣(金?)経済に基づく資本主義もカオナシ的な構造と言えるかもしれない。マルクス経済学的には、貨幣が他の商品を代表する、「ザ・商品」となる。貨幣が私達の欲望を表現する言葉になる。買いしぶり・退蔵・価値観の変化等様々な要因により、癇癪(恐慌)を起こす。

カオナシという名称からしても、固有名詞としての個人が消えて一般化されていく現象のことだと考えるのがいいかもしれない。「国民」や「バルス現象」みたいなものもカオナシと言える。「国民みんなで匿名でバルスしたい」っていう欲望に包摂されている。

ドゥルーズとガタリが顔貌性について書いていたことも思い出す。人間社会を越えて、動物界、カフカが描く無機物の世界でさえ、「顔」という部位が他の全てに対して支配的な立場を持っている。カオナシの仮面も、欲望を満たそうとして巨大化していく体に対してそういう関係にあるように見える。欲望に一般的な人格を与えている(が、そこに個性は全く見いだせない)。

20世紀が「大衆の反逆」の時代だったとするなら、カオナシは大衆社会が生み出した普遍的な現象のように見える。

湯屋の人々

湯屋の人々は、おそらく日本の大衆のイメージとして描かれている。

彼らは、新入りに厳しい。でも、たった2日で千尋を湯屋の一員として認めている。意地悪で、浅薄で、でも優しいときもある。カオナシを崇め、利用し、求めていた存在と違うとわかればすぐに離れていく。「普通の人たち」にもさまざまな人がいる。異なる仕事をし、湯婆婆の陰口を言うが、共同体として動いている。

宮崎駿は、大衆を意識して仕事してきた人だと思う。大衆受けを狙って物語を修正するということもしたようだし、「どう思ったか教えてほしいです」と映画館で紙を渡されたとき、さらにそう思った。(彼の仕事もカオナシ的な構造と言えるかもしれんw)

でも、ジブリ作品のいいところは、「大衆」を誘導されるだけの存在として描かないところだと思う。彼らは個々人として日々との様々な仕事をこなして、忙しく、自分の生活を守ろうとして労働し、しかし引いて観てみると、戦争のための武器や飛行機、食品などを作り、神々が休息するための湯屋を運営したり共同体としても動いている。この辺りは宮崎監督の戦中戦後の「日本大衆」の一貫したイメージなのだろうか。

一部の哲学者たちにとっての誘導されるだけの大衆(スピノザはこの見方を批判している)、吉本隆明の「日々の仕事に専念して誘導されない大衆」などとはちょっと違うイメージを持っていると思う。少しずる賢く、よく共同体とその悪事に加担し、引き際をわきまえている大衆。


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