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ロスジェネ漫画としてのいちご100%

(終盤のネタバレはないと思います。)

先日同級生が亡くなって、私はすっぱりと次に行けるっていう感じではない。彼との、ふざけていたとも真面目だったとも言えない会話を思い出してしまう。彼と私は、考え方も職業もかなり異なっていたけれど、どこか共通の文化資本、特有の志向みたいなものがあった。彼のエートスに自分なりの理解を得たいと思ってる。

この友人については前に書いた。→. https://note.com/kishotsuchiya/n/n0a67d136fe9a 

もしかしたら同世代ならばある程度共有しているものなのかもしれない、と考える。私達の世代の「大衆の思想」みたいなものがあるとすれば、哲学書や学術書よりも、この友人と繰り返し議論した事柄にこそ、世代としての特徴が現れてくるんじゃないかなと、理論化してみる。

「涼宮ハルヒの憂鬱」などと共に私達が話題にしてきたもののひとつが、河下水希の「いちご100%」だった。初めて読んだ時、特に主要キャラが全員魅力的で、彼らの戸惑いや決断の遅さ、失敗なんかも含めて、とても納得できるし、「かっこいい」と思った。そして、なぜまた読もう・それについて話そうと思うかと言うと、処世術的ではない、彼らの美学みたいなものが私達に焼き付いてしまったからなのだ。

いちご100%は、ある面ではよくあるハーレムモノの恋愛マンガで、お色気要素が多いものだ。私の友人は、恋愛モノ・ラブコメがけっこう好きで、「I’s アイズ」「魔法陣グルグル」などと比較していた。私は恋愛モノはあまり読まなかったのだけれど、それでもこの辺りは中高時代に読んでた。もちろん、「どのヒロインがいい」とか「どうしてそういう選択になるんだろう」という議論もした。

構造はというと、連載漫画だから、プロットが多少遠回りしたり、キャラが増えまくったりはする。だが、主要キャラの設定と位置づけ、中心的なテーマの設定、中学編という導入部、高校1年・2年・3年の映画製作、それから結論部などコアになっている要素が非常によく計算されて作り込まれている作品でもある。

既に他のレビューや考察でも指摘されているように、「いちご100%」には、恋愛モノに還元できない要素がある。「I’s」のキャラたちが恋愛に全力投球して道を見失っていくのに対して、いちご100%の真中淳平、東城綾、西野つかさは、それぞれ独特な美学・将来像・生き方を模索しつつ、恋愛をその部分としてやっている。恋愛に対しても将来の夢に対しても真摯に考え、準備をながら、しかもその時その時の気持ちに誠実なのには心を打たれるものがある。(どちらもお色気要素過多だが。)

「いちご100%」は、あまり詳細に両親と子供の関係や時代的な要素を書き込んではいないため、時代性はあまり表に出てこない。けれど、推理すればだいたいの時期はわかる。高校時代の東城綾はコンタクトレンズを装着することで、メガネっ娘から誰もが振り向く美少女に変身している。使い捨てのコンタクトレンズが日本で認可されたのは91年だ。しかし、90年代半ば、2000年代ならポケベルや携帯電話やDVDが出てきてもいいはずだが、高校一年の時点でブルジョア家庭風の西野つかさは家電で、真中は自宅でVHSを使っている。

だから、主要キャラたちはバブル崩壊後(外山恒一さんなどがいう88年革命後)に高校生活をやっていることになる。90年代始めの就活氷河期に青春時代を過ごし、90年代半ばか後半に就活をすることになった所謂「ロスジェネ世代」に属している。

<↑外山さんの運動史に関する本。先日読み切った。力作。ぜひ読むといい。>

そして私は、いちご100%は、ロスジェネ世代のやや理想化された「かっこいい生き方」を描いたものだったと思う。

私達87年生まれは、ロスジェネの後のいわゆる「ゆとり世代」の最初にあたる。「いちご100%」の主要キャラたちは、私達より10歳程度年上ということになる。後に私達は「悟り世代」とか呼ばれるのだけれど、ふたつのレッテルの中間にいる私達の中には、心情的にはロスジェネの先輩たちや兄姉たちの生き様に憧れを抱いてた者もいる。(私もそのひとりだ。)

「ロスジェネ」という言葉も、2020年現在では当時と違うイメージを喚起するものになっている。それは「失われた世代」でもあったけれど、彼らの多くが、決まりきった成功や安定した給料におさらばし、自分だけの夢を追うという生き方を選んだ。「フリーター」というのは、ポジティブな意味を持つ言葉だったということは忘れられているかもしれない。「フリーター」は、「企業戦士」としての大人たちの生き方を否定して、ロスジェネの理想を地で生きる「かっこいい」人達でもあった。こういう雰囲気を感じたい人は、映画の「スワロウテイル」を見て、「Swallowtail Butterfly あいのうた」を聞くといい。バブルの崩壊と「最大余剰と安定の追求」を辞めたロスジェネ世代が、ある意味では解放でもあったという感じが伝わってくると思う。

<↑あいのうた。ある意味ロスジェネのテーマソング。>


妙な組み合わせと思うかもしれないけれど、「いちご100%」は、「スワロウテイル」に続く数年後の高校生たちの話として読める。「終身雇用」「年功序列」「いい大学行って良い企業で働く」という70年代の成功モデルが崩壊した後の社会で、彼らは「ワクワクさせてくれる」ことを求めている。それぞれ独特な夢を追い、恋愛や遊びをやる。

西野つかさの世界観において、恋愛が全ての局面を支配することはない。「好きな人のために自分の人生合わせて生きてくのってつまんなくない?」と言う、中学3年生の彼女を私達は「超絶カッコいい」と思う。自力で考えて決断し、努力し、自分の目標や関心を積極的に伝えられる彼女に憧れる。彼女の行動には暗黙のエリート主義があるが、それは結局彼女が関心を持っている世界でのということだ。行ける限り偏差値の高い高校に行き、パティシエになりたいと思えばその分野で「一流」と見なされているところでの修行を望む。

誰もが西野つかさではない。中学生時代の東城綾は、当初現実逃避の方法だった小説で才能を認められる。偏差値の高い学校よりも、「好きな人がいる高校」を選ぶという選択をする。この選択が、ストーリーが進むにつれて東城が少し独特な成長を遂げる原因になる。ある人達は、東城綾みたいに持てる才能に対して責任を果たしていく、という道を選ぶかもしれない。

もちろん、誰もがすぐに成功者に成れるわけでもなく、いつもうまくいくわけでもない。主人公の真中淳平は、「映画を作りたい」という一般的ではない理由で映像部がある高校に進学し、90年代後半に夢を追うためにフリーターになるタイプの人物だ。彼にとって恋愛は、自分の夢を追うために折り合いをつけなきゃいけない問題であり、一緒に夢を追うパートナーか、それとも夢を恋愛を別個にするかというのは彼がずっと暗中模索することでもある。

この三人の考え方や行動を理解しようとしながら読むと、身近な人から有名人までいろいろなロスジェネ世代の人たちの顔や仕事や苦悩が思い出される。フリーターをしながらミュージシャンとしての生き方を模索して、結局は牧師になったあの人。ジャーナリストや写真家をやった後に冷戦の歴史家になった先輩。強い衝動に動かされてるかのように小説家としての才能に対して真摯に生きるあの人。西野つかさみたいな積極性によって他の人には思いも寄らない成功を収めていく人。今でも暗中模索している人。そもそも河下水希先生自身、ロスジェネ的なひとでもある。

「スワロウテイル」を観てもそう思うのだけど、「いちご100%」を読むと、登場人物たちはそれぞれ全然違うようで、90年代の青年たちのを戦いを戦い、彼らが探そうとしてものを探している。彼らの暗中模索、試行錯誤を「不毛だ」って言い切ってしまいたくはない。「ゆとり、さとり」言われている私達もロスジェネの延長を行きているという感覚があるからだ。


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