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【エッセイ】音楽が羨ましい

自分で書いたり他人の書いたものを読んだり、一番慣れ親しんでいる「文章」に比べて、「音楽」が羨ましいし、妬ましい。ここで言う「音楽」とは、作る人、演奏する人、歌唱する人、聴く人といった音楽を楽しむ人たちであり、彼ら彼女らが目をキラキラさせながら語る、音楽それ自体の総称としている。

何故、私は音楽が羨ましいし妬ましいのか。おそらく、「文章」より出来ることが遥かに多そうに見えるからだろう。

1.音楽は「聞かせる」ことができる

基本的に「文章」は相手に読んでもらう。その間、書いた人は、相手が読み終わるまで待っていることしか出来ない。

朗読などは読んで聞かせることもするが、それは音楽を聞かせることとは感触が異なると考える。文章には筋書きや内容があり、それを表し、伝えることが言葉の一般的な役割だ。つまり、文章は内容や筋書きを相手に理解してもらわなければ、文章に成ることが出来ない。

一方、音楽にだって歌詞や曲の抑揚などに筋書きや内容があるものがあるが、それらが聞かせる人に伝わらなくても、「今聞こえているのは音楽だな」という感知だけで、いわば「音楽」そのものだけで成り立てるのだ。

2.音楽は頼もしい

音楽は何でも引き受けてくれるし、何処にでもいる。BGM、インストゥルメンタル、サウンドトラック、単独でライブも出来るし、かと思えばオーケストラやセッションなど協調することも出来る。劇場でもストリートでも、商業施設の特設ステージでも鳴り響いている。その万能さたるや恐ろしいほどである。

また、文章は音楽を頼りにしているところがある。例えば、小説は音楽にお世話になっている。地の文にアーティストの名前か曲名をさらっと書くだけで、アーティストや曲を知っている読者は自分でその曲を記憶の中でかけてくれる。その上、その音楽を好むないし嫌う人物の像を結ぶ手助けをしてくれる。そのアーティストや曲が纏う文化や歴史、イメージが登場人物の人間性どころか作品のテーマやメッセージ、ひいては作家性まで彩る。

小説の読者としては音楽に何かお礼がしたいくらいなのだが、音楽は「礼には及ばねえよ」とばかりに颯爽と行ってしまうのである。

3.音楽は物語から自由だ

歌詞についての話である。ポップスなど、「文学性、物語性の高い」「共感する」歌詞というものがある。ムチャカナ節などの民謡も物語性がある。歌詞が語りであり、描写や登場人物の台詞として書かれていると考えられる。

一方で、物語が無くても良いのである。情景描写だけ、メッセージだけの歌がある。大学の恩師にボビー・ヘブのサニーを教えてもらい、歌詞を見ながら聴いたことがあり、新鮮だった。聴き慣れている「物語性を駆使して愛してると遠回しに歌う」ものではなく、「愛してるというメッセージ」だったからだ。

一般的に文章は物語性があることが前提である。それに比べて音楽は、物語と手を取り合うこともできながら、解放されてもいる。文章のように縛られていない。

4.音楽はあまりに人間らしいものだ

音楽に引け目を感じる理由の最たるもの、それは言葉で説明できない、言葉で理解がし難いということだ。そして、言葉で説明できなくても心で、身体で感知することが可能であるというトラディショナルな言い回しが音楽を扱う映画や小説には頻発する。

そんな真理めいた言い方をされると、言葉で理解する方が、心と身体で感知することに比べて得意な私は、まるで「人間っぽくないね」と言われているような気分になるからだ。

音楽が人間らしい行為であるという価値観は、空気のように常に辺りに漂っていると感じている。それだけ「人間らしい」という言葉には揺るがない善さがある。その善さが呼吸するように身近な、音楽を楽しむ人たちが眩しい。

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ただ、羨ましいとか妬ましいという気持ちは、相手の目立つところだけを見て、その実態がたいして分かっていない場合に起こる。

私は、音楽をやっている人たちに「音楽に比べて、例えばこういう良いところがあるとか楽しそうとかで、羨ましいものってありますか?」と聞いてみたい。

そうして少しずつ話し合っていって、音楽と仲良くなりたい。

今のところは理論的に考えるにしても、想像力をフルスロットルで働かせるにしても難しい……。

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