【小説】地声④

音楽についての小説です。原稿用紙20枚分を4つのノートに分けて公開しています。最初から順番にお読みになりたい方はユーザー名をクリックしてください。

 以前、学生生活カウンセラーの先生に、忌野清志郎のライブの映像をパソコンで見せてもらったことがある。カウンセラーの先生は、高校生の時からバンドを組んでベースを担当し、今も仕事をしながら演奏活動を続けている、音楽に造詣が深い人だった。先生曰く、歌は上手くないけど良い歌い方をする人として、忌野清志郎を知らされた。矢野顕子と松任谷由実も知らされた。

 良い歌い方って、どういう感じですか? と要領を得ない質問をしたら、(声、もしくは音程と言った方が良いのか? それが)上がって欲しいところで上がるような、と先生は答えてくれた。私は、その時は頭でしか理解できていなくて、かと言って、さらにどう質問すれば良いのか? 言わばわからないところがわからないという状態だったので、気のない相槌をしてしまった。


 先生の言った、良い歌い方を体感したのは、三沢市の七夕祭りに行った時だった。

 野外ステージで洋楽を歌っていた女性の歌声を聴いた途端、先生の言っていたことが閃いたのである。私は、その洋楽を聴いたことがないのに、まるで最初から、上がって欲しいところがわかっていたかのように、女性歌手の歌声を聴くと、そうそうそう、とハッとした。気持ちが良かった。彼女の声は自然で緊張が適度で余裕もあった。伸びやかであるのに、声の震えといった細部に抑制が行き届いていて、よって大局的に聴いた時に情感がたっぷりと溢れてくる。ああ、あの人は自分の中で最も良い声を出しているんだなっていう邪推が入らない、語るような歌い方ってこうなのかもしれないと思った。

 野外ステージの場所は、商店街の一角の狭い広場で、聴衆は車を祭りの間だけ通行止めにしている道路に立ったまま聴いていた。暑くて足も痛かったのに、私は立ち去り難かった。


 その後に観たキッズダンサーたちも良かった。音楽にのって踊るってああいう踊り方なんだって思った。自分の力だけでなく、音楽でも体を動かしているような、観ている方に踊り手の不自由さを感じさせない軽さがある。音は空気の振動だというが、そのいささかの振動で体を弾くように動いているような。青森や弘前でも、縁あってキッズダンスの発表を見たことがあったが、全然違う。青森や弘前の彼らは、自分だけで体を動かしている、音楽が無視されていると感じる踊り方だった。激しくて仰々しい、細くて小さな体に合わない、足取りの重さ。三沢のキッズダンサーたちを観て、初めて気がついた。


 後ろの方で、英語で怒鳴る女性の声が聞こえた。振り返るとレモネードで服を汚した子供を叱っていた。三沢市は米軍基地がある街である。


 一時間、続けざまに歌い、疲れてソファに座り込んだ。あとニ十分で電話が鳴るはずだ。十、十五分後には退室したい。この十、十五分が疎ましい時間で、もう歌う気力が無く、かといって歌う以外のことは思い浮かばず、すなわち出来ることが特に無いので、歌の調子が悪くて機嫌を損ねた今のような時なんかは、憂鬱な気持ちでいっぱいになりやすい。


 テレビ画面では再び、私は顔も名前も知らないけれど、でもカラオケルームのテレビに出ているのだから多分アーティストなんだろうなっていう人が話しかけて来る。よりにもよってこんな時に、音楽は人と人とを繋いでくれるんでぇ、とかほざいてくる。少なくとも私はあんたのこと知らないから繋がってはない、とドリンクに刺さっていたストローを噛み潰した。


 そして、三沢で観たキッズダンサーたちと歌手の声を思い起こしていた。音楽は、やっぱり環境かな、と独りごちてみた。軸が錆びついた滑車の回る音のように、一音一音に引っ掛かりのある、ぎこちない声だった。私は残りのドリンクを飲み干して、まだ大分早いが、伝票を持って部屋を出た。
                              了

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