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父がひとりで死んでいた

1月半ばに、独り暮らしだった父(84)が遠く離れた実家の自室で倒れて亡くなっているのが見つかった。死後1週間経っていた。

1週間前から嫌な予感がしていた。朝方目を覚ますと、寝室のドアが大きく開いて廊下の電気がついていたことがあったのだ。大寒の最中、ドアを閉めずに寝ることなどあり得ない。寒い空気がひんやりと寝室に流れ込んでいた。誰が開けたんだろう。この家には私しかいないのに。

その時にもう私の心は父の死を知っていたように思う。

父は名にちなんで自分のモノに「chika」と書いていた。本人をそう呼んだことはないけれど、私はSNSでユニークな父のことを書くときに「チカさん」と書いていた。それに従って、ここからは父のことをチカさんと書いていく。

2020年夏、姥捨山に私を捨てて、と母は言った

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チカさんが独り暮らしになったのは、2020年夏に母(82)が熱中症で倒れてからだ。母は2020年の年初から、親しい知人の死をきっかけに朝方から夜中まで、自分の姉と妹たち、そしてひとり娘である私に嘆きの長電話を繰り返すという行動が目立つようになっていた。

それでも5月には趣味の集まりにも出かけ、スポーツも楽しんでいた。その母からパタリと誰にも電話がかからなくなった。かからない電話を気にする人はいない。叔母たちも私も、母の気分は上向きになったのだろうと単純に思っていた。

その母からまた電話がかかり始めたのは7月。

「まだ私の頭がおかしくならないうちに言っておくけれど、これまでいいお母さんじゃなかったこと、ごめんね」
「私はこのままおかしくなって死ぬかもしれない」
「私はコロナにかかってしまったと思う」

そういう内容が多く、私は「何を言っているの」と相手にしなかった。そのうち決定的な電話がかかってきた。

「M病院に今すぐ私を連れに来るように言って! 私をあそこに閉じ込めてもらって!」

M病院は、古くから地域にある精神科の病院。どこから聞きつけてきたのか、「頭がおかしくなったらM病院に入院すれば入院費は死ぬまで無料、ただし家族などには一切会うことができない」という都市伝説を母は信じていたのだ。

「認知症」という言葉が私の頭をよぎったのはこの時。専門の医院に診察してもらおうと提案し、準備を進めている最中に叔母から電話がかかってきた。

「お母さんが熱中症で倒れた。今救急搬送されている」

母は熱中症で入院し、手続きのために私は誰にも言わず実家へ飛行機で日帰りした。8月の頭だった。この時、東京から地方の実家に行くのだと誰に言えただろう。手続きは救急病院の裏口でおこなった。母には会えなかった。

チカさんと会ったのはこの日が最後になる。空港まで行く最寄りのバス停まで車で送ってもらった。

約10日間で母の熱中症の治療が終わり、いったん退院したのちに認知症専門医に診察してもらえることになった。

「東京の人が接触したら一切、患者として受け入れることができません」と念を押され、私は行くこともできずその間、母の生活の世話に叔母たちの助けを借りた。

がんサバイバーでもあり、このところ体調があまり良くなかったチカさんは、起きるのが昼近くという生活をしていた。まだ朝早く、彼が寝ている間に叔母たちが母を専門医に診察に連れていった。生きる意欲をまったくなくし、飲まず食わずで痩せ細っていた母はそのまま緊急入院となった。

この時から今に至るまで、チカさんも私も母には一度も会えていない。チカさんにとっては、その日の夕方に帰ってくると思っていた母との、これが永遠の別れとなった。

音楽好きだったチカさんの華やかなメモリー

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チカさんが独り暮らしになることが決まったので、介護認定を受けてヘルパーさんを入れよう、一度きちんと検査してもらって体調をよくしようと提案したのだが、すべて本人に断られた。

「僕は僕ひとりでちゃんと生活していける。他人の手は借りなくていい」

とてもカッコつけたがりの人だった。娘の私が言うのもおかしいかもしれないけれど、イケメンだった。高校時代はコーラス部の部長で、とてもモテていたと聞いた。詩作をしては専門誌に投稿していたとも聞いた。ロマンチストだった。

よほど音楽が好きだったらしく、就職後もマーチングバンドに所属し、チューバを吹いていた。よく街頭やスタジアムでの演奏を見に行った。家でもトランペットやクラリネットを吹いた。20歳前後には、地元のキャバレーから毎日、スカウトが来たという。

本人に確かめたことがある。すると、本気で公務員を辞めてキャバレーのバンドに入ろうと、制服まで作ったのだそうだ。もしかしたら公務員ではなくキャバレーのバンドマンの娘だったかもしれないと心が躍ったが、そうすると母とは知り合っていなかっただろうから、私は生まれていなかったのだと後で気がついた。

私が20歳になった時に連れていってくれたのは、行きつけのカラオケスナックだった。ここは歌を録音してカセットテープでプレゼントしてくれるという珍しい店で、私も何かを歌ってカセットテープに録音してもらったと思う。初めて飲んだお酒は安いウイスキーの水割りだった。

定年間際に、チカさんにとって大きな出来事があった。がんになり、下顎を取り去ったのだ。咀嚼ができず、話す言葉はほとんど他人には聞き取れなくなり、なによりも顔が激しく変形してしまった。

どれだけショックだったろうと思う。

ラッパも吹けず歌も歌えず人と話せず食事もできなくなった。それでも、ただの一度も愚痴も言わず嘆きもしなかった。歪んだ顔でどんどん外に出かけていった。定年後に始めた社交ダンスで段位も取り、さまざまな大会に出場した。食事も自分で作るようになった。好きな味の料理を作ってミキサーにかけ、スープにして食べていた。

そんなチカさんだったが、いよいよ年齢的に身体が弱り、どんどん痩せていき、体調が悪くなってからはどこにも出かけず人とも会わなくなっていった。あれだけひどく顔が変形しても果敢に社会と関わっていたチカさんにとって、身体が弱った自分というのはもっとも人に見せたくなかった姿だったのだろう。

まったく、カッコつけやがって。

2021年冬、チカさんの死

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コロナ禍で一切会えないので病院からの電話で病状を知るだけだけれど、母はどんどん内向きになり、ほとんど話さず、うなずくか首を横に振るかだけで意思表示をしていると聞いた。なぜ生きる意欲をここまでなくしてしまったのかは誰にも、きっと本人にもわからないだろう。

そんな母のことばかりに気を取られて、チカさんはなんとかやっているものだと思っていた。思うようにしていた。

電話で話してもよく聞き取れないので、私たちはいつもメールで意思疎通をしていた。そのメールも10月頃から来なくなった。理由はわからないが、おそらくチカさんの体調は私が想像するより悪く、気力が湧かなかったのだろう。それでも決して病院に行こうとはしなかった。

実は母の入院に関して、チカさんと意見が合わなかったのだ。毎日、母と接しているチカさんには母が入院するほど何かが悪いという気がしなかったらしい。私から見れば母は危機的状況で、このまま放っておくと死んでしまうと思い、医療へのアクセスを試みたのだった。

チカさんと私の意思疎通は、月に一回の、母の入院費の支払いをお願いするときだけになった。今月はいくらだから病院に振り込んでね、とメールをすると、すぐに振り込んでくれていた。

電話をかけると言い合いになるので、私は様子見の電話も次第にかけなくなった。11月のチカさんの誕生日にも、お正月にも、電話もしなかった。メールもしなかった。

そして1月の半ば。今月の母の入院費の振り込みについて連絡しようと何度か電話をかけたが、出ない。いつも電話に出るときと出ないときがあったが、この時は嫌な予感がした。

鍵を預けてあった、実家の近所の叔母に電話をして事情を話し、実家に様子を見に行ってくれないかと頼んだ。東京の自宅で仕事をしながら不安が募っていった。16時頃、叔母から電話がかかってきた。

「お父さんがベッドの脇の床に倒れている」

私はそう聞いてもなぜか冷静だった。生きていれば119番。死んでいれば110番。その知識はあった。

「倒れて苦しんでいるんですか、もう死んでいるんですか」

叔母は「うーん…」と言った。

「死んでいるんですね、110番してください」

警察からの事情聴取

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故郷への羽田からの最終便は19時頃。今から準備すれば間に合うかもしれない。しかし私の家には2匹の猫がいる。これから帰郷して葬式を出したり取り急ぎの事務手続きなどを済ませるとなると1週間近くかかるだろう。その間、猫を預けなくてはならない。

そんなことを考えながらグルグルグルグルと狭い部屋の中を歩き回った。何から手を着ければいいかわからなかった。

そのうち警察から「これからしばらくののち、事情聴取のお電話をします。明日の朝にご遺体の解剖をしますので、明日来てくだされば大丈夫です」と電話がかかってきた。明日の朝一番の羽田からの便を取り、とにかくまずは猫を預けようとペットホテルに連れていった。

若い警官は、ご遺体、と言った。

チカさんは「ご遺体」になってしまったのだ。

事情聴取は1時間以上に及んだ。最後に会った日、最後に電話をした日、チカさんの病歴、預金額など事細かに聞かれたが、私はほとんど何も知らなかった。チカさんは私にとっては父だったから。父は父であれば良かったのだ。それ以外のことなど、知らなくても良かったのだ。これまでは。

警察によると、1週間前から新聞が取り込まれていなかったので、亡くなったのは1週間前だろうということだった。その日に着ていた服がベッド脇に置かれ、下着姿だったこと、他の部屋の電気はすべて消されており自室の電気とエアコンだけがついていたことから、就寝しようとして倒れ、そのまま事切れたと思われた。

「当地でも一番寒い夜でした」と若い警官は言った。

そうだろう。そうだろう。私もその夜は寒かった。東京も寒かった。覚えている。だって、寝室のドアが開いていたから。

残されたメモとチカさんの覚悟

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翌朝、空港から直接警察署に向かうと、現場検証の写真を見せられた。

このように倒れておられました。このようなお顔でした。部屋の様子はこうでした。バッグにはこんなものが入っていました。現金はこれだけお持ちでした。預金通帳の内容はこうです。携帯電話の発信記録はこうです。

なんだか遠い知らない世界の話を聞いているようだった。

死んでいたチカさんの写真の手足は棒きれのようだった。筆まめな人だったのでさまざまな記録がメモされていたが、最終的に体重は38キロだったと本人がレシートの裏に書いていた。

「今まで一生懸命に生きてこられたのでしょう」と年配の警官が言った。

そうなんだろう。なぜだか、その言葉を聞いてチカさんの人生を肯定されたような気がしてほっとした。

ご遺体を確認していただけますか。そう言われ、安置室に向かう。既に葬儀屋さんによってきれいにされ、お棺に入れられた安らかなチカさんの顔を見て初めて、お別れが来たのだとわかった。

「お父さん、今までよくがんばったね」

それしか言えなかった。涙は出なかった。

葬儀場には内金が入れられ、納骨堂も購入してあった。僕らが死んだらここに連絡してここにお骨を入れるように、とあらかじめ聞いていたけれど、まさかそんな日がこんなに急に来るとは思ってもいなかった。

葬儀、火葬、納骨と2日間は慌ただしく、コロナ禍でありながらもごく少人数の親戚が来てくれて、チカさんの若い頃の思い出話を聞き、心慰められた。しかしそれが過ぎると、誰もいない実家にいるのが怖くなった。

父も母もいない一軒家。学生時代を過ごした部屋にいると、他の部屋でチカさんが暮らしているような気もするし、コーヒーが入ったよ、とひょっこり現れるような気がした。怖かったのはそういう意味ではない。誰かがどこかから入ってきたら私はひとたまりもないなという怖さだった。東京ではマンションに住んでいるのでこういう怖さはなかった。闇が襲いかかってくるようだった。

これから無人になる実家の防犯のことも考えなくてはならない。家の名義も変えなくてはならない。チカさんの年金を止めて母の遺族年金をもらう手続きをしなくてはならない。携帯電話を始め、契約していたであろう様々なサービスを止めなくてはならない。車を廃車しなくてはならない。保険はどうなっているんだろう。

明日からやらなくてはならない膨大な事務作業のことを思うと気が遠くなった。恐る恐る、チカさんが倒れて死んでいた部屋に入ってみた。重要書類の置かれた場所は以前、聞いていたのですぐに見つかった。ぼんやりとデスクの上を眺めてみる。

バインダーに留められたレポート用紙に書かれていたのは日記ではなかったが、こうあった。赤で下線が引いてあった。

「ママの二度目の入院は誰が決めた?」

最後までチカさんは納得できていなかったのだろう。

他にもびっしりと文字が書かれたメモ帳が多数見つかったが、それらはすべて、新聞やテレビニュースで聞いた言葉などの抜き書きだった。好奇心旺盛なチカさんらしいと思った。最後まで勉強熱心だったんだな。私の勉強好きはチカさん譲りなんだなと、なんとなく頬が緩んだ。

友人たちの手伝いと残された老猫4匹の行方

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ひとりで実家にいるのがあまりにも怖かったので、食事でもしようかと言ってくれた地元の友人たちを「片付けを手伝ってほしい」という名目で来てもらうことにした。

ダイニングキッチンを中心に、生ものやペットボトルなどの片付けを手伝ってもらい、本当にありがたかった。チカさんの手でキッチンはきれいに整理されており、冷蔵庫には自身で作った流動食が深鍋に2つ、残されていた。本人はまだ生きる気があったのだ、と思うとせつなくなった。

残された領収書を見ると、1週間前まで近所に買い物に行っている形跡があった。2021年のカレンダーがいくつか買ってあり、家のあちこちにぶら下げてあったけれど、表紙がめくられていなかった。

年賀状を15枚買ってあったけれど、なくなっていたのは2枚だけだった。いつも私にも年賀状をくれるのに、今年は来ないなと思っていた。

舐めるように新聞を読み赤線を引き、抜き書きするのが好きだったのに、取り込んだ一週間分くらいは読まずに積み上げてあった。読む力が残されていなかったのだろう。

新聞といえば、一週間分が取り込まれずポストに突っ込んであったけれど、この地元の新聞社は「○○販売センター県内○店のネットワークは、一人暮らしの高齢者や子どもたちが安心して地域で生活できるよう活動する『○○見守り応援隊』として、県、県警、県社会福祉協議会、県民生委員児童委員協議会と協定を結んでいます」と言っている。機能しなかったんだな、とちょっと残念な気持ちがした。

実家には12歳を超える老猫4匹が取り残されており、寒い部屋で1週間、エサも食べずなんとかがんばって生きていた。地元や、横浜、東京でいろんな人や団体に当たり、引き取り手を探したのだが見つけるのは難しく、結局、東京の私の部屋に連れてくるしかなかった。

私の東京の部屋にも既に猫が2匹いるので、この老猫たちの健康状態を万全にしてから連れてくる必要があった。いったん東京に戻り体制を整えてからまた実家に行き、1週間かけて4匹の猫を地元の動物病院に連れていった。血液検査、エイズ検査、ノミダニ駆除、ワクチンを済ませてから飛行機で運んだ。10万円以上が吹っ飛んだ。

そういえば、チカさんに病院での検査を勧めたときに「僕が入院でもしたらこの猫たちの面倒は誰が見るの?」と気色ばんだことがあった。この猫たちの存在が彼を医療にアクセスさせなかったのかもしれないけれど、せめてなぐさめになっていたらいいなと願った。

激しい自責の念と自分の心の危機

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今でもまだ怒濤のような日々を過ごしているが、なによりもつらいのはこの哀しみや不安を一緒に引き受けてくれる人がいないことだ。老いた親を持ち、ひとりっ子で遠距離でバツイチ独り暮らしでパートナーも子どももいないというのは、こういうことなのだと心から身に沁みている。

母は前述したように、感情が完全に自分の内に向いてしまっているので、主治医にチカさんの死を伝えないようにと言われている。といってもどうせ会うこともできないけれど。

この重荷や不安に耐えきれず、多くの友人達にメッセージをしたり電話をもらったりした。とてもありがたいと思った。でも中には私の話が重すぎて負担になった人もいるだろうと思う。ごめんなさい。

検索しまくったけれど、残念ながら、こういった状態を支えてくれるメンタルヘルスケアは見つけられなかった。なぐさめになったのは、似たような経験をした人の経験談だった。必ず立ち直れる日が来る、と少し思えた。

もっとも耐えがたい気持ちは、チカさんを孤独死させてしまったという自責の念だった。なぜあまり連絡をしなかったのか。なぜ母にばかり気を取られて痩せ細っていくチカさんのことを気遣ってやれなかったか。

しかし、チカさん自身が誰にも黙って死んでいくことを選んだのではないかとだんだん思えるようになってきた。カッコつけたがりの人だったから、誰の世話にもなりたくなかったんだよね。最後まで自分の力で生きると決めて覚悟もしてたんだよね。

そうでしょ、チカさん?

申し訳ないけれど、いつも肌身離さず持っていたバッグの中も財布の中も全部改めさせてもらった。自分が死んだらすべての臓器を提供すると丸のついたカードが見つかった。残念ながら提供できなかったね。そして、バッグの底には私の幼い頃の写真が1枚、入っていた。

これからの実家じまい

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チカさんが死んでから二度目に実家に行ったときに、吸い殻の入った缶コーヒーの空き缶が庭に転がっていた。ショックだった。既に空き家であることを、つきあいがなくとも近所は皆知っているはずだ。田舎だもの。

私が小学校5年生の時に建てた家の前に、家族3人が誇らしく立っている写真が残っている。築約44年ののち、このような終わりを迎えるとは誰も想像していない顔だ。

母はおそらくこの実家には復帰できない。当面は無人になってしまう実家の防犯と防火のために、空き家セキュリティサービスを申し込んだ。地元の不動産屋には、月に1回の通水・通気サービスを申し込んだ。

2階建てで8部屋もある実家を、誰かに貸したりエアビーにすればとアドバイスしてくれる友人もいたが、いずれ生じる相続税のことを調べると、そうはしないほうがいいこともわかった。

あるいは、どうせリモートワークをしているんだから、流行りの二拠点生活を始めてもいい。超高速のネット環境を整えて、夏には遠方の友人達を呼んで合宿でもしようか。庭や屋上でバーベキューもできるし花火もできる。

独身独り暮らし、遠距離介護、孤独死、空き家、相続、実家じまい、残されたペットと、2021年に入ったらいきなり現代社会の問題がテンコ盛りになってしまった。しかし、塞ぎ込むよりは、この事実を書き留めていき、誰かの役に立ちたいと思えるようになった。

それがもの書きとしての私の役目だと思う。

そうでしょ、チカさん?

※この記事を元にした連載が本になりました。


▲宮本浩次の「あなた」についてチカさんと語り合いたかったな

※この間、話を聞いてくれた友人達に深く感謝申し上げます。それから、この記事を読んでくださったあなたにも深く感謝申し上げます、ありがとうございます。

【取材・依頼歓迎】独身、遠距離介護、孤独死、空き家、相続、実家じまい、残されたペットなどについて、書くことも話すこともできます。顔出しOK。お役に立てそうなことがあればsara<at>edittheworld.jpにご連絡ください。

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