見出し画像

肌寒い月の夜には


駅からアパートまでの道すがら、空には鋭く尖った三日月が浮かんでいた。
九月も半ばを過ぎると残暑もめっきり影を潜めて、七分袖でも夜は肌寒く感じられる気温になってきた。
十五夜まではあと少し。今年は10月1日だっただろうか。
見上げた月がふくふくと満ちていき、満月になる頃にはきっと上着も必要になってくる。

こんな肌寒い夜には、昔のことを思い出す。

両親が別居を始めたのは私が小学校2年生の時だった。
それまでも家庭内に生じている不穏な空気を幼いながらに感じていたものだったが、それが決定的になったのはアルコールの臭いを全身から漂わせながら父親が帰ってきた夜のことだった。
既にベッドに入って寝入っている時間だった筈の私が子供特有の勘でふと目覚め、階下のリビングの扉をわずかに開けた時に見えたのは、アルコールと憤怒で顔を真っ赤にした父親、割れた食器と泣き崩れる母親だった。

しかし目にした光景とは異なって、この諍いの根本の原因はどうやら母親の浮気にあったらしい。そのことが原因なのかは分からないが、私の親権を取得したのは父親の方だった。
早めに建てたマイホームには、弟か妹の予定でもあったのだろうか、やけに広い子供部屋と無気力になって表情の消えた父親、穏やかな飼い犬と呆然とした私が取り残された。

出ていったのは母親の方だったが、なぜか取り残されたと感じたのはこちらの方だった。

本来は父親の役目のはずだったが、無気力の反動で憑りつかれたように仕事以外の事をしなくなった父親に代わって、飼い犬のリッキーの世話は私の役目となった。
大型犬だったリッキーは当時の私を簡単に引きずるくらいの力はあったはずだが、生来の穏やかさも相まって散歩の際も私がむしろ引っ張らなければならないくらいにおとなしく毎日の散歩をこなしていた。

私の寂しさを察してくれたのか、餌や水の準備をする間もリッキーはこちらの顔をよく舐めてきた。その大きな舌でこぼれる涙を拭ってもらっていたのは、どうやら私だけではないようだった。
夜中に父親の帰って来る気配がして、部屋のカーテンを小さく開けて庭を覗くと、父親がしゃがみこんでリッキーを撫でているところをよく見かけていたように思う。

構成員の欠員により一度大きくバランスの崩れた家は、それでもぎりぎりの危ういバランスを保っていたように思えていたが、私が3年生に進級した年の秋口に父親が見知らぬ女性を家に連れてきた事でそのバランスはさらに大きく揺らされようとしていた。

その年の肌寒い月の夜に、私は家を出ることにした。

当てがあったわけではない。
強いて言えば隣の市に居を移した母親の元を目指そうという思いは心の片隅にあったのかもしれないが、たかが小学3年生では闇雲に歩いたところで辿り付けようはずもなかった。

ただ家にいられない気がしていた。
リビングのソファで酔っぱらったまま寝込んでいる父親を確認したのち、私はリッキーのリードを掴むと家の門を静かに開けて夜の歩道へ踏み出した。なぜリッキーを連れ出したのかは分からない。やはり一人は不安だったからだろうか。
リッキーだって夜中に私が突然散歩を始めて、しかもいつもと違うルートにいきなり向かいだしたとなればさすがに不思議にも思うはずだったが、彼は文句の一つも言わず(それはある意味当然だが)大人しくいつものように私の後ろを少し遅れてついてきていた。

たったそれだけのことで、その時の私はどれだけ救われただろう。

彼と一緒ならどこまででも行けるかもしれない。
意気揚々と歩みだした足取りはしかし予想以上に肌寒い気温に30分もしないうちにすっかり打ちのめされていた。
道端にうずくまる私に心配そうに彼が寄り添ってくる。

心細さと情けなさと不安と焦燥が入り混じって漏れ出した頬を伝う悲しみを、この時も彼はひたすら優しく舐めとってくれていた。

嗚咽の声が知らず零れていたようで、不審に思った近くの家の人の通報により、私の逃避行はあっさりと終焉を迎えた。
家に連れ戻された時、今まで見たこともなく狼狽した父親に抱きしめられて、いち早く訪れた私の反抗期はその時終わってしまったように思う。
父親が連れてきた女性はほどなく私の新しい母親となり、我が家のバランスはいびつながらも再び安定を取り戻した。
時間が解決するものは意外と多くて、実の母親とも成人を迎える前には穏やかな関係を取り戻していた。

大学進学で家を出た私に、リッキーが亡くなったと知らせたのは新しい母親で、急いで家に帰った私を迎えたのは、父親や私以上に泣き崩れる彼女だった。穏やかな彼は彼女の涙も拭ってあげていたのだろうか。
リッキーと一緒に過ごした時間でいえば実は彼女の方が長くなっていたことをその時初めて思い知らされた。

それでも私は忘れない。
肌寒く月が輝くあの夜に、リッキーと一緒にどこまでも行ける気がしていたあの瞬間を。彼の優しい抱擁を。
それは今でも私の中に息づいていて、時折頬を流れる悲しみを優しく拭ってくれる気がしているのだ。

更なる活動のためにサポートをお願いします。 より楽しんでいただける物が書けるようになるため、頂いたサポートは書籍費に充てさせていただきます。