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時の風景⑭ ~Sauce(ペルー)より -後編~

これまでに引き続き、旅の最中に書き留めていたことを。

温度感やその時の香りを残すため、編集はあまりしていません。それでもよければぜひ。

見たり聞いたりしたことに、僕の勝手な推測や解釈をのせていることがあります。内容はあてにしないでね。

7/10~7/23 Sauce

Workawayのボランティア生活。
こちらが前編 中編 の記事。今回は7/16~7/18の日々を綴ります。


7/16

午後、りんととイカダ作りをする。まとめると「適当・楽しい・失敗」だったと思う。動画編集は手抜きですが、楽しさは伝わるんじゃないかと。


他のみんなは町に残るということで、ひとり拠点に戻り、ジャングルで一夜を過ごす。

小豆島の時みたいに怖くなるかと思っていたけど、全然ならない。イノシシがいないからかな。笑

あとは場所にもう慣れている、一応電気や家がある、とかも考えられそう。

2年前、西日本ひとり原付旅の最中、瀬戸内海・小豆島の無料キャンプ場でテント泊をした。コロナのせいかしばらく手入れがされていない様子で、民家からもだいぶ離れていたので自分しか人間がいない山の中で夜を明かした。なんともいえない畏れのような感覚にとらわれ、ものすごくソワソワする経験をした。


7/17

いつもよりよく眠れた。一昨日が硬い床だったからなのか。それとも、イカダ作りとかで肉体的に疲れていたからか。はたまた部屋に一人だったからか。

因果関係を考えようとするクセがあるみたい。出来事のあとには必ず理由の仮説が書いてあって、編集しながらやや鬱陶しいやつだなと感じる(笑)

火をおこすのが面倒くさいので、加熱しなくても食べられるものです一旦朝ごはんを済ませる。ちょうどのタイミングでルクマがどさっと落ちてきたのは天の恵みだとしか思えなかった。


近くの塩山を見に行くとか、とりあえず暇だとか、町に降りていっちゃおうかなーとか思ったけど、せっかくだからここに居座ってみようと思う。

こんな人里から離れていながらも拠点のちゃんとしたとこでひとりで過ごせることなんて滅多にないし。どんなことに出会うのか、どんな自分の反応が見られたり変化が生まれるのか、楽しみ。


朝ごはんのあと、

(朝飯食べたあとなのに笑)クラッカーを食べながらコテンラジオを聴き、気になっていたネット記事を読み、本も読んで。今日は曇っているな。涼しい。

なんか幸せだー!と思った。こんなにおもしろい本やコンテンツが手の届くところに存在してくれている。いつ読んでもいいし、読まなくてもいい。ありがたい。


昼間〜午後
晴れてきた。りんとの持っていた内村鑑三の本がなかなかおもしろい。『後世への最大遺物』の清すぎる感じ、理想論すぎると思う部分もあるけど。そういうものとして参考になる。時代背景の影響を強く感じた。

ヤシを使った屋根

音楽を聴く。

いつご飯を作ろうかとぼんやり考えたり。

周りを見渡したら本当に木とか空とか建物とか美しすぎて。

もし死にたくなったら、死ぬ前にここだけは訪れたいかもしれない。

欲をいえば、別に死にたいとかじゃなくても、いつでも飛んでこれるようにしておきたい。それくらい生きていて心地よい。


そして、旅をしている自分は心身ともに非常に健康だなあと思う。


健康ならオールオーケーということではないのだけど、優先順位としては健康は一番上にあっていいような気がする。最初に固めたい土台、ともいえる。

みんなはどうか知らないけれど、健康じゃないと、好きなことやりたいこと頑張りたいことも、満足にパフォーマンスを発揮できないから。


「自分さえ良ければいい」ということではまったくない、と前提を置いた上で、愛から行動するため、よりよい世界へ変化していくため、自分の心身の健やかさを第一に考えるっていうのは間違っていないと思える。

良くも悪くもメタ認知が自動で常時発動するのを止められない僕にとって、確からしさを感じることはほぼないと言っていいんだけど、いろんな角度から突っついても今のところ揺らいでいない。


自分がどんな状態であっても、常に世界のためにできることに向けて動けるというのがもちろん理想なんだけど、それはどうも高望みしすぎなんだということにようやく気がついた。健康でなくなると、自分で気づかないうちになんか毒々しくなったりしてしまう。


頭で考えたり、人からアドバイスを受けると、「風邪程度では止まらないよ」とか「骨折してもまだいけるよ」みたいな力もちょっとずつ育てたほうがいいという意見が出てくる。けれど、こと僕の場合において、それがあまり賢いやり方ではないと経験をもって今は結論づけている。もちろんいつ変わってもおかしくないけれど。


小さい三輪車とかも大体乗りたくなっちゃう


改めて、社会や他人(特に子ども時代に関わった大人)の持つ価値観が及ぼす影響の大きさを感じざるを得ない。休まず働くのが美徳、怠けることは良くない。日本と比べた時、南米ではこのあたりがすごくゆるいと思う。

同じ農耕民族でも相対的に手のかかる稲作が主だった、国家総出で近代化してきてそれがある程度うまくいった成功体験、村社会では働き者でいた方がみんなから支持されやすいであろうこと、現代資本主義に影響を受けた競争的な社会、そのあたりがぱっと思いつくけれどどうなんだろう。


現代だったら、休んでいる間に置いていかれてしまうかもしれないという恐怖は多くの人が持っているように見えたり。


一般の人たちが何人かで道路を掃除していた。この光景は他では滅多に見ない気がする。


話をすこし戻します。

郷に入れば郷に従えという感じで周りに合わせることで他者との摩擦が減り、生きやすい性質が日本社会に一定あることも事実だと思う。

かといって、自分を偽ることが健康的でないことは言うまでもない。


「変化することのない自分らしさ」みたいなものは存在するのか?
譲れないものと妥協できることってなに? 「手放す」ってどういうこと?


浮かんでくるのはこのあたりの問い。曖昧さや、そもそもすべてが移ろいゆくことを念頭に解像度を高めたい。


今の時点ではかるーく、
健康になるために一時的に自分が本当に美しいと思うものを手放すことがありえるんだよー、長い目で見て本当に大事にしたいものを大事にするために、時には執着をやめよう〜みたいに着地している。完璧は無理だと知ろう。ガンディーやブッダにはなれない。(近づくことは可能だし、その気持ちは持ち続けていい。)


ノート見返してたらピッタリの言葉が。

「まず完璧な人間というものが定義上ありえないことだ。聖人は不完全なままでそれを超越していただけだ。つまり、聖人は自らの不完全さを受け入れて行動していた。」 

ロバート・フリッツさん


ホタルがこれまでより多い!きれいー!


7/18


昨日今日と、日本に帰ってからどうしようということばかり考えていた。

今ここに生きていなくてよくない、とか一瞬思ったけど、必ずしもそうではないのかも。思考や妄想は現実の今ここに起きていることではないけど、なんだかんだこういう選択のプロセスを自分は楽しんでいて、半分それ自体が目的化している部分もありそうだと気づいた。ほどよく悩むのが好き(笑)

現実に何も起こってないじゃん、と突っ込む自分がいるが、今はその声があまり気にならない。必ずしも目に見える何かを前に進めるためにやってるわけじゃないしな~と。


~~

今日はここまでに。分量的に3記事くらいかな~と思っていたら中身が予想以上に濃くおさまりませんでした。無理やり「完結編」と名前をつけて、次回でサウセの2週間を締めくくりたいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。


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