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カフェオレと塩浦くん #42

 

 あれから10日ほどの時間が経った。
 3月14日の風は少しだけ春を纏っているようで、ほんのりと温かさを感じた。

 今日は土曜日ということもあり、上野駅は観光客が多くいて、私はその光景を少しばかり離れた場所で見ながら、ただぼーっと突っ立っていた。
約束の時間……といっても私が一方的に伝えた時間だったが、果たして彼は来てくれるのだろうか。
 私はそれだけがただただ心配であった。

 手に持ったチケットが小さくくしゃりという音を立てて、しわが寄る。
少しだけ手汗が滲んできて、私はハンカチを握りながら、手のほらを拭った。

 約束の14時まであと5分。
 美術館の前に立ちながらそわそわとする私は、はたから見れば落ち着きのない子供のようだと今更ながらに思う。

 これほどまでに誰かを待つことが楽しくも悲しくもあったのは、私の生涯一度もなかった。

 上野駅は改装工事をされたために、広々と舗装されているせいか、美術館の入り口からでも駅のホームがよく見える。
 私はじっとそちらの方向を見つめた。

 ふいにふわりと甘い香りが私の鼻をかすめた。
 私はその匂いに驚き、反射的に後ろに振り返る。

「―――待った?」
少しだけ痩せた彼が私の肩を叩いた。

「待ったよ、ばか」

 私の目が潤む。
 この日を私はどれだけ待ち侘びたのだろうか。

 彼がいなくなった1ヶ月間は私の人生史上、1番目まぐるしかったと思う。
 多くの人の優しさと卑劣さ、そして正義と悪に触れてきた。

 これもどれも、私が苦しんできたのは、この日のためにあったんじゃないかと思うくらいに、幸せと喜びと嬉しさと哀しさと寂しさと痛みと苦しさが心の中で入り混じる。
 もはや何色だかもわからない涙が私の頬に一筋流れた。

「いこっか」
 彼は私の手を優しく握った。

 私はその手の平を握ったが、そんな距離では到底我慢できるはずもなく、彼にすり寄り、体を押し付けるようにして右腕を抱きしめた。

 こんなことする人間じゃなかったのにと私は思わず笑ってしまった。
 彼は「どうした?」と聞いてきたが、私は「ひみつ」とだけ答えた。

 そのまま美術館へと入り、係員に入場チケットを手渡し、私たちは企画展示の入り口までたどり着いた。

「少しだけドキドキする」
「そうなの?俺は落ち着いているかな」

 彼は優しく微笑んだ。
 緊張しているのは私だけかと思ったが、少しだけ彼の指は震えていた。
 私達はそのまま、奥へと続く企画展示室へと足を進めた。

 今回の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は日本に初上陸の名画が数多く出展され、メディアでも多く報道されたことから、人気の企画展であった。

 イギリスのロンドンにあるナショナルギャラ―という美術館に所蔵されている作品となるが、この企画展示で最も目玉となっていたのがゴッホの"ひまわり"であった。
 多くの観客はこれを見たいがために、作品の前をたむろうが、この企画展示はそれ以外にも数多くの有名な作品が展示されている。

 私はどうも絵のことになると人と歩幅を合わせることが苦手で、結局、いくつかのブースに分かれた企画展の中を彼と別々に行動しながら絵を鑑賞していた。
 彼もまた、私が絵を好きなことは知っているので、それに気を利かせてくれたようで、引っ付いたり、話しかけたりをすることはなかった。

 私がこの企画展で印象に残った絵はレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインの「34歳の自画像」であった。

 光と影の画家と称された彼の絶頂時に描いた自画像で、その佇まいは落ち着きがありながらも、凛々しく自信に満ちた表情をしており、背景や服飾についても何色もの黒を使い分け描かれていることに、その技巧と感性に私は胸を打たれた。

 私はこんなに偉大な画家にはなれないと思うが、それでもなお、遠く名画に恋焦がれている。

 私の時が止まったように、その名画から目を離せなくなっていた。
 そんな私から溜息のような、吐息が私の口から漏れ出す。

 つくづく、私は絵を描くこと好きでたまらないんだと、呆れながらもその誇りを再確認することが出来た。
 そんなことを思いながら、私は他の展示を見て回ったが、ふと、塩浦くんが一枚の絵の前で立ち止まっているのが見えた。
 邪魔しちゃ悪いなと思ったが、なんの絵なんだろうと思った私は、ついそれを後ろから覗き込んだ。

 それはピエール=オーギュスト・ルノワールの「劇場にて(初めてのお出かけ)」というものであった。

 ルノアールの絵は私も好きで、少女特有の透明感は、私がどう頑張っても出せないことから、画家として憧れる一人である。
 油彩画で描かれているが、油彩画は水彩画と違い、どうしても立体的な絵の構造になるほか、色が滲みにくいことから、どうしても技術がものを言うところもある。

 だからこそ、やりがいはあるし、自分の描きたいものが描けたときは凄く嬉しいが、それでも今なお四苦八苦している状況だ。

 彼は私にようやく気付いたのか、後ろを振り返った。

「その絵、好きなの?」
 私は小声で聞いた。

「うん。初めて見たんだけどね。この少女の透明感好きだなって思って。前に空季が見せてくれた絵に似てるなってさ」

 私は「あっ」と思った。
 以前の食事の時に一度だけ私の油彩画を見せたのであった。
 その時彼は綺麗だねと褒めてくれたが、未だにそれを覚えていてくれて、なおかつ偉大な画家の絵を見てて、「似ている」なんて言うもんだから、私は思わず気恥ずかしくなった。

「私はこんなに上手くないよ?」
 つい、言葉を裏返す。
 照れるとどうしても私はそれを隠すように強がってしまうのは悪い癖なのかもしれない。

「俺から見れば、すごくうまいさ」
 彼は私の目を見て笑った。

「ありがとう」
 そっけなく返したが、私は内心ひどく喜んだ。

 あぁ、やっぱり彼は私のことをよく見てくれてるんだなと、つくづく感心する。
 私はこんな時間が永遠に続けばいいのに、なんて、子供みたいに笑い返した。

 (つづく)

※名画のご紹介


※これまでのあらすじはこちらから



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