鳩山郁子オマージュ展 《羽ばたき Ein Märchen》 |鳩山郁子『羽ばたき Ein Märchen』書評|翼端の速度のために
Text|高柳カヨ子
飛翔は常に墜落を内包している。
まるで空へと真っ逆さまに落ちていくように飛翔する鳩の群れとジジ。
鳩山郁子はこれまでも作品の中で、飛ぶ少年とその落下を繰り返し描いてきた。彼女が描く少年たちは飛ぶことを恐れない。その澄みきった瞳は、空へ落ちる/墜ちるのを望んでいるかのようだ。
『羽ばたき』もまた鳩山にとって、飛翔と墜落の物語なのである。
子供たちが熱狂する映画の登場人物、ジゴマは怪盗だ。変装して世の中を撹乱する怪盗というのは、要するに社会の枠外に逸脱した存在である。ジゴマごっこが大人によって禁止されるのは、子供たちの夢が大人にとってはあまりにも危険に満ちているからなのだ。
「子供たちは一人きりでは決して夢を見ないものだよ」
ならば一人で別の遊戯を始めたジジの夢はどうなっただろう。キキも他の仲間たちもついに最後まで、ジジの孤独や怒り、自由への渇望を理解することが叶わなかった。ジジの夢には誰も入れなかった。
鳩たちを引き連れ夜の世界に遊ぶジジは、ジゴマに成り代わることで夢を全うしようとする。昼の世界で彼が見る夢は少女。鳩山が描く少女装のジジは、子供らしい屈託のない笑顔で生き生きと輝いている。
ローラー・スケートの轟音は千羽の鳩の爆音のような羽ばたきと呼応して響く。スケーティングは天使の真似。決して飛ぶことのない天使たちの群れが回る。一番天使に近づいたジジでさえも、そこで飛ぶことは叶わない。
だからジジは一人きりで夢を見る。鳩たちとともに高く高く飛ぶ夢を。
緊迫感あふれる場面を一切の言葉無くして卓越したその画力だけで表現する鳩山のペンが、彼の孤独な夢とその終わりを鮮やかに描き出す。
物語の象徴とも言えるU塔は、最初から死の予感をはらんで登場する。
原作者である堀辰雄の人生もまた、その一生を通して死の影が色濃く射し続けたのだった。私淑した芥川龍之介の自殺、一人目の婚約者である矢野綾子や才能を高く評価していた立原道造の結核による病死。
自らも結核に罹患し病に伏せて度々喀血しながらも、堀は驚くほど強靭に自らにまとわりつく死を創作に昇華していく。幾たびも死の淵に彷徨いながら、プルーストやコクトーなどのフランス文学に親しみ、また折口信夫を通じて日本の古典文学への関心を持ち続けた。
堀辰雄は、知的エリートやインテリの象徴として戦時中の学徒兵に絶大な人気があったという。また戦争に協力せず抵抗した文学者という堀辰雄像が、戦後のブームを作り上げた。実際堀自身も文学界の翼賛体制に対しては断固とした距離を取っていたのだが、それは政治的な立場の表明というよりも、ただひたすらに文学と向き合うためという純粋な次元からのものではなかったか。
プロレタリア文学とロマン派という両極の間に立ち、西洋と日本の文化の両翼を見据えた、極めて冷静で近代的な文学的想像力の賜物である堀辰雄の作品。叙情的とみられやすい堀の作品だが、元々数学者になりたかったという彼の文章は決して情に流されることなく精緻に澄み渡っており、これは鳩山の鉱物的なまでに研ぎ澄まされた筆致につながる。
鳩山郁子と『羽ばたき』をつなぐもうひとつの大事な存在が、鳩である。
鳩は8000年以上前から人類とともに在った。ノアの箱舟の逸話の元とされる『ギルガメシュ叙事詩』では既に、大洪水のあと陸地を探すために鳩が放たれている。新旧聖書やギリシア神話から現在に至るまで、西洋に於いて鳩は平和の象徴である。一方日本では鳩は軍神である八幡神の神使であり、勇ましさを表現するものとして武家の家紋に好んで用いられた。
鳩は平和と戦争の間を飛翔する。
鳩の飛行能力と帰巣本能を利用した伝書鳩の歴史は古い。通常の鳩の飛行距離は700km程度だが、伝書鳩は1000km以上飛ぶことができる。軍事用の通信手段として訓練された伝書鳩は数十万羽に及んだといわれ、伝言を伝えるという目的を遂げる前に無残に打ち落とされた鳩も多かった。
戦場を飛び交い犠牲となった軍鳩たちを幻視した鳩山の傑作『寝台鳩舎』では、健気に任務を遂行する鳩たちの姿が少年になぞらえて凄烈に描かれている。彼らは傷つきながらただひたすらに、いつか書かれるであろう言葉を携えて白紙の伝言を運ぶ。
『羽ばたき』の中でジジもまた、鳩たちから会得した飛行術で自由への飛翔を試みる。それがたとえ夢であったとしても、彼は空に向かって飛び立つ。
鳩山の精緻な描写は、大胆な構図と迷いのない線が特徴的である。
墜落を恐れて縄でベッドに縛り付けられたジジの母親。ジゴマごっこで捉えられて縄で木に縛られたジジ。ベッドに横たわるジジに落ちるU塔の格子の影もまるで縄のようだ。縄を解いてジジは飛び立つ。ジジの魂と共鳴した一羽の鳩は、彼の墜落の後を追うように落下する。
鳩山が付け加えた最後のシーンは原作には存在しない。関東大震災で母親を失った堀辰雄は、母親を探すため数日間隅田川を泳いで探し回ったそうだ。墜落への恐怖の中で悲惨な死を遂げた母親と墜落を恐れず飛んだジジが、ともに手を取り合って飛翔する最後の場面は、二人の魂の救済と同時に、堀が救えなかった母親への供養にもなっていると思われてならないのだ。
登場人物の名前や場所を現実世界から少しずらすことで、堀はこの物語を寓話として描いた。その意図は「Ein Märchen」という副題からもうかがえる。そしてそれは鳩山が描く無国籍な美しい人物造形や服装を通じて、普遍的なフィクションへと昇華されることとなる。
堀辰雄の原作をステップボードとして、鳩山はこの『羽ばたき』という物語の強度をさらに高みへと押し上げた。
それは鳩山郁子という稀有な才能が、飛ぶことを恐れない証だろう。
たとえ飛翔が墜落を内包しているとしても、想像力はその羽ばたきを止めない。
*
*
*
*
*
*
【ご予約商品】
著者名|鳩山郁子
書名|『羽ばたき Ein Märchen』
★おひとり様3冊までの購入制限あり
★イラストサイン・「U塔と鳩」スタンプ入り
判型|A5判
240ページ
発行年|2020年
出版社|KADOKAWA
*
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?