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好きというか、そのままを尊重してくれれば、それでいい

今日は「好き」についての思考を深めたいと思う。

「好き」の基準は人それぞれ。
対象全体のこともあれば一部のことだってある。
しかし、後者の場合ならばそうでないところも存在するということだ。

私の人格は、印象の好き嫌いがはっきり分かれる。
「面白い」と言う人もいれば「常識がない」と言う人もいる。「話が通じない」とも言われたことがある。
それくらい、取り扱いが難しい人間なのだと思う。

好かれるためにいろいろ頑張っても、結局はすぐにバレてしまうわけで、最終的に人は離れていく。
「自分は何もしていないのに」と自己視点優位になるのも無理はない。好かれるためにやっているのだから。
残念ながら他人は努力のことを知りはしないし、知ったところで好きになるかどうかは別問題である。

「好き?」と聞かれたら「好き」と答える。しかし、その理由を聞くのは野暮な話だ。ただ人は欲深い生き物なので、どうしてもその先を知りたくなってしまう。
存在意義を確かめたいのだと思う。自分はここにいて良いのか、その人と接する資格はあるのか、行い一つで全て無になるのではないか……などの不安を抱えながら生きている。
だから、みみっちい私を好いてくれる人には最大限の愛を贈りたい。愛というよりかは単なる押しつけにしかならないのだけど。

では、相手に「好き」と言われたらどうだろうか?
私だったら、素直に嬉しく感じる。そして、存在意義を確かめるために自分を棚に上げる気がする。
自分が一番嫌っているのは自分だから、仮に相手が「嫌い」と言われたら「やっぱりそうだよね」と同意するのだ。でもやっぱり、そう言われたらとても悲しい。自分が一番嫌いなのに。
そんな中での「好き」は、数少ない救いの言葉なのだ。

野暮と感じるのは、そのままの自分でいたい欲が強いのだと思う。
お互いに好きであればそのままの自分でいても大して気にならないだろうし、微笑みのやり取りだけで満足するのではないだろうか。

……まぁ、恋愛以外でのリアルの場では傷つくことが目に見えているから「好き」とかは言わないけど。
この場の一員として認めてもらえるだけで幸せと思うようにしている。

だからある意味、言ったら負けだ。

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