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【書くこと】#4 「『悪い人』が出てこない小説はつまらない説」について、三島由紀夫作品を読みながら考えてみる

悪い人が出てこない小説は面白くない、と言われる。
結構グサッとくる言葉だ。なぜなら、私は「悪い人」を描くのにものすごい苦手意識があるからだ。これまで書いてきた小説にも、いわゆる「悪人」はまだ登場したことがない。私の小説はつまらないってことかしら。

というかそもそも「悪い人」ってなによ?他人を平気で傷つける人?それっていわゆるサイコパスとかソシオパス?

もし悪い人がサイコパスやソシオパスを示すなら、私は描けないと思う。研究不足だし観察不足だ。これまでの人生、いわゆる「やばそう」な雰囲気を醸し出す人は結構すぐにわかったし、そういう場合は足音を立てずに後退りして距離を置いてきた。

だからそもそも、関わったことのある他人をこころの奥底から邪悪だと思ったことがない。自分自身も、なにも関わりのない他人を一方的に傷つけたいと思ったことはないから、サイコパスの心理は書籍とか本人の声からしか学べないだろう。

だからこういった「ただの悪い人」を描くのは、想像では可能かもしれないけれど、それに感情移入できるほどの熱量を込められるとは思えない。
そんなわけで、私は「悪い登場人物」に苦手意識があった。


悪い人ではなく、「圧倒的なエゴイスト(状態)」?


でも最近、突破口が見えてきたような気がする。
「悪い人」は書けないけど、「圧倒的なエゴイスト状態の(優しいところもある)人」を書けばいいのでは?という考えになってきたからだ。

この結論に辿り着いたのは、先週に三島由紀夫の「愛の渇き」を読んでからだ。


この小説の登場人物に、悪い奴は出てこない。ただ、全ての登場人物が大変に利己的だ。
片想いの連鎖が 与吉→悦子→三郎
と連なっているんだけど、それぞれのキャラクターが互いに「憐憫」「同情」「共感」などの感情をほとんど覚えないのだ。
とにかく自分が愛した人に愛されたい、そのためなら他人はどうなってもいいのだというエゴが痛いほど伝わってくる。
他の脇役も、実際はどうかわからないけれど、「優しさ」の前に「世間体」「見栄」が出てくる。
悪い人ではないけれど、結果的に自分のためにしか行動していないがゆえに、他人を傷つけたり突き放したり、相手の気持ちを考えない言動をとってしまう。
だから悪人というよりも、未熟と言い換えた方が的確かもしれない。

似たようなことが映画の「ジョーカー」にも見える。この映画では、のちに殺人鬼ジョーカーとなるアーサー・フラックのそれまでの人生を描いている。


アーサーは殺人鬼だけど、悪人だろうか?
映画の後半で人を殺しまくっているシーンだけを見たら、もしかしたら「悪人」だと認識するかもしれない。だが、この映画を最初から最後まで見て、彼が生粋の「悪」だとは思えなかった。二人暮らしで母の介護をし、バスの中では子供を笑わせようとするような、元来優しい心根の持ち主ですらあるかもしれない。
彼の心を歪めさせ、他人への憎悪を燃やさせたのもまた、世間の人々(悪人ではない)の「エゴ」なのではないか。
エゴの連鎖というか、自分本位な言動に傷つけられすぎて、それなら自分も同じように他人の気持ちなんて考えずに生きてやる!復讐してやる!みたいな気持ちが感じられた。

最近あった事件の加害者にも一部通じるのかな。今調べてみたら、ジョーカーに関するSNS投稿をかなりしていたみたいですね。めちゃくちゃタイムリーでびっくりした。

つまり、「積極的に他人を傷つけたい」と思って行動しているキャラクターよりも、「自分の心やプライド、世間体や財産を傷つけられる/傷つけられた」と感じるから、他人を傷つけたり裏切ったりするキャラクターの方がリアリティがある。

そちらの方が読者(私を含む)は納得し、感情移入しやすい気がするし、私にも書けそうだ。


個人的な体感だが、現実世界でも「悪人」なのではなく、「その時に悪人になっている状態」を見てしまうことが多いように思う。その人が常に悪い人ではないけど、未熟が故に他人を気遣わない言動をしているような。

そう考えると、人間ってほんとに一言では言い表せないよね。だから面白いし難しいし怖いしなどとも思ったりもしています。

人によっては至極当然なことかもしれませんが、私にとっては創作における発見だったので、書いてみました!

目標:リアリティのある「エゴが先行している人」を描いてみる。

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