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自分を生きる入り口・読書会に参加して

先日、ある読書会に参加した。「自分をいかして生きる」この一冊の本をとおして、いろんなひとのいろんなあり方、生き方、働き方に出会う時間。そこには「ほんの入り口」という場がまず存在していて、店主の服部さんとお客さんのユウキさんとあいさんの3人の出会いがあって、この読書会の企画が立ち上がって、そしてそこに集まった人たちがいて。

家に帰ってからも受け取ったその熱でぼーっとして、なかなか寝付けなかった。今もその余韻が自分を内からじんわり温めている感じがする。

自分の仕事人生も後半に差し掛かってきて、ぼんやりだけどゴールらしきものも見えてきて、今はこの本を最初に読んだ2009年とは違う景色が目の前に広がっている。2009年はkirariを始めて2年目、まだ頼りない足取りでフラフラしながら、でも志だけは高く、ひたすら前を向いて歩いていた。そのとき出会った一冊とこうして出会い直す機会を得たのはこの読書会のおかげだ。

これまでもオンラインも含めいろんな読書会に参加してきたけれど、場を共にした人たちに出会えた喜びをこれほど実感できた読書会は数少ない。通常の読書会は本が主役で本の目の前を人が通り過ぎていくような感じがすることが多い。だけど今回の読書会では本というよりそこに集まった人が主役というか、おひとりおひとりのあり方やこれまでの歩みにふれる深い体験ができた。

参加者の皆さんはそれぞれ世代もバラバラで自分と親子ほど歳の離れた若い人たちもたくさん参加されていたのが嬉しかった。ずいぶん前に出版された本だし現在とは時代背景も異なるから今の若い世代の人が読んでどんなことを感じているのかはわからなかった。正直、この本に書かれたような生き方や働き方は単なる理想論として「こういう風にできたらいいけど、そうは言っても現実は違うよね」と醒めた目線で捉えられていたりするのではと想像したりしていた。けれど、その予想はいい意味で裏切られた。参加者の皆さんそれぞれの読み方や響き方があって、本当に大切なことは世代を超えて伝わるものなんだなと改めて書き言葉というか本というものの強さと重さを感じた。

自分が大切に読んできた本がこうして次の世代へと読み継がれていくことに何だかよくわからない喜びというか嬉しさがある。

この喜びや嬉しさの正体って何だろう? 別に自分は著者でもないのに。

そこには自分が受け取ったバトンを次の誰かに渡して受け取ってもらえたという感じがある。そして、そのバトンがまた次の誰かへと引き継がれていく光景を目に浮かべることができて、自分ひとりの喜びには留まらない広がりがある。その広がりは時を超えて「未来」につながっている。

「未来」という言葉が今まで以上にまぶしく煌めいて見えるのは両親の老いや看取りという問題に直面し、自分自身の行く末にも思いを巡らせるようになってきたからかもしれない。

今年は旧正月明けに父が倒れ、母の認知症が進み、一気に家族というものの土台が崩れ、今もそれを立て直すプロセスは進行中だ。いろんなひとに助けられる日々、自分ひとりで生きているわけじゃないと常々感じてはいたけれど、これほどまでに実感したことはなかった。この体験は自分と自分自身そして自分と他者との向き合い方、仕事のあり方、生き方を大きく変化させていっている。

その変化の最中にこうして自分の足元を確かめるような時間をもらえたのはとてもありがたかった。

読書会の翌日、仕事帰りにほんの入り口さんにお邪魔して、鶯の心地好い鳴き声を聴きながら、店主の服部さんと一緒に入院中の父に差し入れする本を選んだ。とても贅沢な時間だった。数ヶ月前にはこんな時が来るなんて思えなかったから。

親孝行する時間が与えられたのは幸せなことだと思う。今は本を介して父と過ごす時が少しでも長く続けばいいなと願う。


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