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ひとり芝居

窓の外は雨。濡れたアスファルトをタイヤが擦る音が遠くから聞こえてくる。 しばらくその音に意識を向けていたら、自分が悩みや問題の入った風船を大きくしたり、小さくしたりしているイメージが浮かんだ。

問題が自分の外からやって来て自分を困らせているのだと思いたいけど、結局すべて自分の内で起きていることなのだ。

劇本も自分で書いて、自分で演じてる。演じる劇場も自分専用。キャスティングも全部自分でやっている。なので、とっても忙しい、大変だ。

そして自作自演のお芝居を延々と毎日上演し続けている。上演回数が1万回を超える Catsどころではない。それは生まれてから50年、一日も休演することなくロングラン上演されているスゴい演目なのだ。


「人はみんな何かを演じてるんだよ」

ずいぶん前にある人から言われたひと言がずっと心に引っかかっていた。時々、思い出してはこれはどういう意味なんだろう?と頭の中で反芻してみたりもした。でも、やっぱりその言葉の意味はつかめるようでつかめない。この言葉を残した人は演じることを仕事にしていたので、ただ職業的にそういう風に考えているだけなのかなとか。

でも、今朝コーヒーを飲みながら、ふっとこの言葉を思い出し、謎が解けたような気持ちになった。

私は子ども時代、ファミリービジネスの嫌なところを濃縮したような環境の中でアクの強い激しいキャラクターを持つ大人たちに囲まれて育った。人見知りをしてる暇もないくらい、いろんな大人が出入りしていて、見たくなかった大人の争いが目の前で繰り広げられることもあった。おかげでたいがいのことには動じなくなったのはありがたいことでもあるけれど。

そんな子ども時代によくやっていたのが自分で自分の物語を作って、一日、その主人公になって過ごすことだった。といっても、今のようにインターネットがあるわけでもないので、本で読んだりテレビで見たりした内容を模してその日の自分の気分に合わせて、架空の主人公ならどういう風に過ごすだろうと想像してみるのだった。このひとり遊びは見たくない現実からの逃避行でもあると同時に自分の気持ちをふわっと引き上げてくれるワクワクした楽しい試みでもあった。

なりたい自分をイメージしてみる。大人になっても、そのイメージする力は自分の背中を押してくれていたように思う。まずイメージして、そのヴィジョンに命を吹き込み、次に実際に行動に起こしてみる。そこからはトライ&エラーが続くけれど、あっさり叶ったこともけっこうあった。

イメージすることは日常で使える簡単な魔法でもある。

願いが叶う仕組みを知りたいという好奇心は今も尽きない。どうしてこれは叶ったのに、あれは叶わないのだろう?その違いは一体なんなのか?そんなことをつらつら考えているのは子ども時代から全然変わっていない。

どうやらイメージすることとインスピレーションを受け取ること、この両輪が働くことで願いが叶うようになっているみたい (これは自分なりの仮説だけど)。

まず自分が叶えたいヴィジョンを鮮明にイメージする。そして宇宙にヴィジョンを投げてみる。そのヴィジョンを宇宙がキャッチして自分の命にとって最適な形に仕上げ、インスピレーションとしてもういちど自分に返してくれる。それを行動に起こしてみる。この細かな繰り返しなのかな。ただ宇宙に全部丸投げしておまかせというわけではないし、かと言って自分でガチガチにプランニングしてそれを全部自力で実行していくのでもない。

ヴィジョンを創造するときに不安や恐れ、過去の記憶をなるべく片付けてスッキリさせておくことも大切だと思う。このひと手間を省かないこと。でないと、潜在意識にあるものが漏れて不安や怖れから生み出されるヴィジョンが実現してしまう。

自分の潜在意識にある影や闇を無視したまま、ただ明るい未來を思い描くことはできない。以前やっていたのはこの自分の心の暗がりを無視して、ひたすら明るい方だけに焦点を合わせてヴィジョンを創造していたのだと思う。その限界に気づいた頃に文章面談を始め、言葉をとおして自分の影や闇と対峙していくプロセスが始まった。

それがひと段落したのが今月だった。影や闇も大切な自分の一部分として内包しながら新たなヴィジョンを創造し、インスピレーションを受け取り、形にしていく。

どうして従来のやり方が頭打ちになったのか、わかったような気がする。それは影や闇を無視していたからだ。自分の中でうごめく影や闇を葬り去ったつもりでいたけど大間違いだった。そもそもそれらの存在を認めてなかったし、あると感じても無視し続けてきた。そして、それらが持つ大きな力にも気づいていなかった。

今、思い返すと半分の自分で生きていたみたいな感じだったんだろう。影や闇は今も自分の心の中にあるし、この瞬間も息をしている。だけど、今はそれらの存在が自分が望む未來や光に向かう支えや原動力にもなっている。影や闇の存在が恥ずべきものではなくなり、自分の味方に変化したのかもしれない。

痛みや悲しみや傷といったものが持つ力は自分が思っていたよりも大きく力強いものだ。生々しくて、生命力に溢れ、いきいきとしている。自分の心の中で脈打つ影と闇の力、この力にふれることができて良かった。この力はどの人の中にも存在し息づいている。それを無視したまま、人生を歩んでいくことはできないんだな。

行き詰まり感の正体が見えた感じがする。どうして今まで上手くいってたのに上手くいかなくなったのだろう?その答えを自分の外に求めて探していたけれど、その原因は自分の心の中にある影と闇が創り出した想像上の記憶のモンスターに過ぎなかった。

やはりここでも自作自演、自分が過去の記憶を元にした劇本を演じていたのだった。新しい劇本を書こう。影や闇を内包し、それらと共に生きている今の自分が書く劇本。不安や恐れ、痛みや悲しみ、傷の存在をまるっと包み込む、だけどそれらの言いなりにはならないし、無視したりもしない、ただ一緒にいる。いつか無くなることを願わないわけではないけれど、きっとこれからも無くなることはないだろう。

嫉妬という感情と対峙し、その存在を認めたときのことを思い出した。あのときも自分にはそんな感情はないと端からその存在を認めていなかったのが、あっさり崩れ落ちたのだった。陥落、まさにそんな感じだった。幼い頃から嫉妬という感情がどういうものなのかよくわからないと思っていたけど、それはわからないのではなく、もう二度と感じたくないからとそれを無視し続け、封印して来ただけだったのだと気づかされた。

感じること、無視しないこと、その感情の存在を認めて包み込むこと。
そして一緒に歩いていくこと。
一歩ずつ、ゆっくり。

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