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掌編小説【タマゴ】

お題「卵」

「タマゴ」

サンドイッチの夢を見ていた。卵の黄色とパンの白さがまぶたに残っている。まだ少しそれを見ていたくて先生は目を閉じた。軽くトーストされた柔らかいパンの中に、ふんわりと焼かれた卵がはさまれている。手ざわりと匂い、そして口に入れた時の……。
「今日はサンドイッチを作りましょう」
先生は目を開けてそう思った。カーテンの隙間から光が射しこみ、寒さは感じない。六時くらいだろう。春の朝だ。毛布もそろそろ洗わないと、と先生は思った。

 タータンチェックのネルのパジャマを脱ぎ、新しいシャツとズボンに着替え、タオル類を交換して洗濯機を回す。家中のカーテンと窓を開けて湯を沸かす。紅茶を淹れて、ポットに入れる。妻が愛用していたカップに少し注いで写真の前に置く。
冷蔵庫から卵を三個取り出してボールに割り入れる。片手で割れるようになったのは最近だ。人は年をとってもちゃんと進化できるものだ。先生は満足気に微笑む。定年になり中学校を去ってからすでに二十年以上経つが、友人、知人、かつての教え子達からはいまだに「先生」と呼ばれる。しかし、この二十年の間には人に教えるよりも教えられることの方が多い。卵の割り方は妻に教わった。トーストのコツや卵の焼き方なども。
「まだまだ教えてほしかったのですけどね…」

フライパンから温まったバターの香りが立つ。そこに卵液を注ぎながら先生はつぶやく。卵からはすぐにふつふつと泡が立つ。塩をパラパラと振る。塩は後から入れた方が卵がふんわりと焼ける。手早くかき集めて形を整える。ひっくり返して火を止める。あとは余熱で十分だ。トースターがチンと鳴る。パンを取り出して手早くマヨネーズを塗る。焼きたての卵を乗せてはさむ。軽く押さえて四つに切り分ける。思い切りよくスパッと包丁をおろすのがコツだ。切れ目から湯気が立ち、いい匂いがする。出来上がったサンドイッチを清潔なリネンのナプキンに包み、紅茶を淹れたポットと共にカバンに入れる。近所の公園で朝食にしよう、と先生は思った。
「ちょうど桜が咲いていますからね」
(それは素敵ね)
妻の声が心に聞こえる。

まだ早い公園には誰もいなかった。先生はベンチに腰かけて頭上の桜を見上げた。朝陽を受けきらきらと輝いている。ぷちぷちと音がしてクルクル回転しながら花が膝の上に落ちてくる。小鳥が花をちぎって蜜を吸っているのだ。
「小鳥も朝食の時間ですね」
先生はリネンのナプキンを広げてサンドイッチを眺めてにっこりする。
「みゃあ」
その時、猫の声がした。ベンチの下からのようだ。先生はサンドイッチを横に置いてのぞき込む。ちいさな黒猫がうずくまっている。
「おや、子猫が…。おかあさんはいないのでしょうか」
先生がベンチの下に手を伸ばしても逃げる様子はない。先生の両手にすっぽりと収まってふるえている。
「みゃあ、みゃあ」
先生はサンドイッチから卵を少しつまんで猫の口元に差し出した。くんくんと匂いをかいでいる。しばらく待って、まだ固形物は無理なのだろうかと思った時、パクリと口に入れた。
「おお」
ごくん、と飲み込んで、先生の手をくんくんと嗅いでいる。
「もっと食べますか?」
 先生はまた小さく卵をちぎり取って猫に差し出した。子猫は今度はすぐに口に入れる。うにゃうにゃとうなりながら食べる。その時ふと気づくと、いつの間に来たのだろう、先生の前に七歳くらいの男の子が立っていた。

「その猫、たまごが好きなの?」
 男の子は猫を指差して先生にたずねた。
「そうですね。お腹が空いているみたいです」
「おいしそうにたべてる」
「君も食べますか?」
 知らない人にモノをもらってはいけない、と教えられているかな?と思ったが、男の子は大きな目を開くと躊躇なくうなずいたので、先生は「どうぞ」と言って、ベンチの上のサンドイッチを目で指し示した。両手は猫のためにふさがっていたのだ。男の子はサンドイッチをそっと一切れつまむとパクリと大きくかぶりついた。猫ほどの警戒心もない。ガツガツと言うほど夢中で食べている。朝ごはんを食べていなかったのだろうか。それにしても…。

「すごく、おいしい」
あっという間に食べてしまうと男の子は言った。
「そうですか、よかったらもう一切れどうぞ」
男の子は今度は少し間をおいて、いいの?という目で先生を見たので、先生は微笑んでうなづいた。男の子はまたサンドイッチを取ると、口に入れかけて、ふと手を止め、小さく卵をつまみ取ると、猫の口元に差し出した。
「食べるかな」
猫は男の子の指先をくんくんとかいで小さな手と爪を伸ばすと、男の子の手をたぐり寄せるようにして卵焼きを口に入れた。男の子は先生を見て笑った。先生も微笑んだ。
「おじいさんは食べないの」
男の子は今度は先生に聞いた。
「今、手がふさがっていて食べられませんねぇ」
「じゃあ、ぼくが食べさせてあげる」
男の子は別の一切れを取ると、先生の口元に差し出した。
「ふふ、なんだか猫になった気分ですね」
先生は男の子の手に顔を近づけた。小さな、ふっくらとした指に挟まれたパンは、いつものパンとは違うように見えた。男の子の指からは春の匂いがした。土と草の匂い。命の匂い。

口に入れたサンドイッチは懐かしい味がした。先生はハッとした。それは、かつて妻と一緒に食べたサンドイッチの味だった。どうしても、同じように作ってもなにかが違うと思っていたのに。
ちゅん、ちゅん、という声がして、また桜の花がひとつ、くるくると舞いながら猫の頭の上に落ちた。猫は気づかないまま卵を食べている。先生はそれを見ながら懐かしい味を噛みしめている。男の子も二つめのサンドイッチを、今度は大事そうにちびちびとかじっている。

「こんなににぎやかな朝食になるなんて思いませんでしたよ。君たちのおかげですね」
 食べ終えた先生は紅茶を啜りながら言った。
男の子も並んでベンチに座り、先生の膝で満ち足りたように眠っている猫の頭をなでていた。
「ぼく、また来てもいい?」
男の子は小さな声で聞いた。
「もちろんですよ。僕たちはもう友だちです。またこの時間に会いましょう。この猫も連れてきますよ」
「おじいさん、飼うの?」
「これも縁ですからね。名前を考えないと」
「タマゴ!」
男の子は叫んだ。
「タマゴ、という名前ですか?」
「うん。だってコイツたまごが好きだもん」
「では、タマゴにしましょう」
男の子は澄んだ鈴の音のような声を上げて笑った。天使のような声だ、と先生は思った。しかしよく見ると天使の服はあちこち擦り切れている。スニーカーも真っ黒で、つま先には穴が空いている。男の子はピョンと立ち上がると大きな声で、
「おじいさん、ごちそうさま!タマゴ、またね!」
と言って、駆け出して行った。同時に頭上の小鳥たちが一斉に飛び立った。その羽音が天使が飛び立つようにも感じられて、先生はなぜだかふと不安な気持ちになった。
「また、会いましょう!」
先生は飛ぶように走っていく男の子の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。

でも、先生が男の子に会ったのはこれが最後だった。近くの公団住宅で起こった悲しいニュースは、定年後テレビと新聞を手放した先生の耳には届かなかった。
「あの子はあれから来ませんね…」
少し大きくなった猫をなでながら、先生はベンチに座っていた。桜の樹はすっかり緑の葉で覆われている。先生はあの時の男の子の指の匂いを懐かしく思い出した。そして今日も二人分作ってしまったサンドイッチを口に運んだ。
「一人ではこんなに食べ切れませんよ」
(あの子はもうお腹を空かせていないから安心して、あなた)
ふと妻の声が聞こえた気がして、先生は空を仰いだ。
一羽の白い小鳥が頭上を飛び去っていく。それを見上げてタマゴがにゃあと鳴いた。

おわり (2022/4 作)

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