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掌編小説【釣り】

お題「磁石」

「釣り」

傍らで子どもが釣りをしている。と言っても畳の上だ。
理科の時間に習ったとかで、釣り針の代わりに磁石を結び、魚の絵を切り抜いた紙にクリップを付けて釣りあげては喜んでいる。他愛のないあそびだ。
「おとうさんもやろうよ」三月生まれの息子は三年生になっても幼い感じがする。笑顔につられて私は読んでいた本を置いて子どもの作った魚たちをまじまじと見た。

「なかなかよく描けてるな。でもこれはなんだアサリか?アサリは釣るもんじゃないぞ」
「いいんだよ。クリップを付ければなんでも釣れるんだから。ぼくもっと描く」子どもはクレヨンを手にしていそいそと画用紙に向かう。あっという間に釣りよりも絵に夢中になる。

誘っておいてなんだと思いながら私は畳の上に置かれた釣り竿を持って、畳の海に釣り糸を垂らした。釣り針、もとい磁石を畳の上でするすると滑らせるだけで魚がどんどんくっ付いてくる。それだけだ。でも面白いと感じている自分がいる。四十五にもなって磁石にクリップがくっ付いてくるだけのことがどうして面白いのだろう、と思う。こんな事でも狩猟本能が満たされるのだろうか。

「大漁だ」つぶやいてみるが子どもは答えない。聞こえなかったのかもしれない。くっ付いた魚たちを海に返して、再び釣り糸を垂らす。すぐに大きなタコがくっ付く。タコの一本釣りだ。
「おい、大タコが釣れたぞ」今度ははっきりと子どもに声をかけるが子どもは絵に夢中である。振り向かない子どもに背を向けて私はタコを海に放してやった。タコはすいすいと機嫌よく海に帰る。私はまた糸を垂らす。ちょうど魚のいない所に落ちる。釣り竿を動かさずにそのままじっとしている。

海は広く空は青い。きらきら光る海の中で魚たちは平和に泳いでいる。私はあぐらをかいて静かに釣り糸を垂らしていた。不思議と本当に釣りをしている気分になってくる。平和な日曜の午後。子どもはまだ絵を描いている。その真剣な後ろ姿を見ながら、自分は人の声が耳に入らないほど真剣になにかをしたことがあっただろうかと思った。
ふと磁石の「N極、S極」が思い浮かぶ。そして「極」という言葉に軽いおののきを感じた。磁石が金属を強く引き付けるのは「極」と呼ばれる先端だ。中途半端な場所は力を持たない。極めたものだけが力をもち、仕事をする。真剣になれなければ何かを極めることなどできない。怯えを振り払うために私は姿勢を正した。同時に釣り竿が少し動いて何かが釣れた。こんな私でも釣りができるか。いや、仕事をしたのは「極」だ。私はそれを利用したに過ぎない。

「おとうさん、釣れた?」子どもの声がする。絵を描き終えたようだ。
「アサリが釣れたよ」針からアサリを離して子どもに渡す。子どもは気の毒そうな顔をして、「もっと増やすから今度はたくさん釣れるよ」と言って、書き終えた魚たちを畳の海に放流した。中にはドーナツやビスケット、車や電車まである。「海には魚」という固定概念を恐れもなく破壊する我が子にも私は軽くおののきを感じた。彼はいつかなにかを極める人間になるかもしれない。そんな思いと同時に、自分はもうなにも極めないだろうとも思った。あきらめだけが極まっている。

「豊穣の海、だな」
「ほうじょう、ってなに?」子どもがたずねる。
「たくさんできて豊かってことさ」
「ふうん、おとうさん、欲しいものがあったらぼく描いてあげるよ」子どもが張り切った声で言う。私は思わず「仕事」と言いそうになって言葉を飲み込む。

「あー、ぼくお腹すいちゃった。そうだ天ぷらも描こう、おとうさんエビ天食べる?」
調理済の魚まで釣れることになった豊穣の海の前で、私はまだ釣り糸を垂れたまま動けずにいる。

おわり (2021/5 作)

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