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掌編小説【春の夜の治療室】

お題「集中治療室」

【春の夜の治療室】

「palin」と音がして、同時に胸が痛んだ。紙で手を切った時のような痛み。「あ」と軽い衝撃の後にじりじりくる。制服のブラウスのボタンを開けて見たが、皮膚はなんともない。でも痛い。切り傷のような、打ち身のような、どちらでもないような。
居間に戻ると母はまだテレビを見ていた。さっき「あんたはお父さんそっくりだ」母が私をにらみつけてなじった時だった「palin」と音がしたのは。
私はだまって外に出た。母は振り向かない。外は日が暮れかかっても暖かく、私は俯いて胸をおさえながら歩いた。数歩先に靴が見えた。先がとがったピエロが履いているような靴だ。私が目を上げると、黒縁のメガネをかけた白髪まじりの50代くらいのおじさんが立っていた。お医者さんみたいに白衣を着ている。靴はピエロなのに。おじさんは真顔で私に向かって言った。
「君、すぐに治療をしないとだめだ」
「え?」
私は気づいたら真っ白な部屋の中に居た。いつの間に?
起き上がろうとしたが動けない。私はベッドに固定されていた。ここは病院?
さっき、おじさんが近づいて私の腕をとった。その後の記憶がない。
顔を横に向けるとピエロの靴が見えた。
「君の魂は壊れかけている。すぐに治療しないと壊れてしまう」
おじさんの声だ。気づくとたくさんの人が私の周りにいた。
「ここは魂の集中治療室なんだよ」
私はまた意識を失った。

夢を見た。
「なんとか間に合ったよ」夢の中でピエロの靴のおじさんが笑っていた。
「魂はね、たいていは自分で壊してしまうんだ。君の魂を壊そうとしたのはお母さんじゃない。君自身だよ。でも元通りに治したからね。今度は大事にしなさい。昔壊れたお母さんの魂は間に合わなかった。だから今も壊れたままだ」
「なでてごらん。これが君の魂だ。とてもきれいだよ」
私は手を伸ばしてピンク色のちいさな地球みたいな玉をなでた。赤ちゃんの頬みたいに弾力があって艶々している。バラみたいな香りもする。
なでていたら涙がでてきた。
涙はピンク色の玉に落ちて、ますます輝いた。
おじさんは両手でピンク色の玉を受け取ると私の胸に置いた。ぬくもりが私の全身に広がっていく。

私は目を開けた。
白い部屋ではない。カーテンが薄く開いていて光が差し込んでいる。朝みたいだ。この布団は私の布団。ここは私の部屋。
私は胸をおさえた。温かい。もう痛みはない。
夢で見たピンク色の玉を思い出した。「魂」とおじさんは言った。きれいになった私の魂がここにあるのだろうか。
立ち上がってカーテンを開けた。空が青い。眩しさに目を細める。

そっと台所に行ってみた。母が朝食を作っている。大根のお味噌汁の匂い。
「お母さんは間に合わなかった」とおじさんは言った。
だから今も壊れたままだと。

母の後ろから「おはよう」と小さく声をかけた。
母はふりむかずに「遅刻するわよ」と言った。
私はそっと近づいて母を後ろから抱きしめた。
母は驚いて振り返ろうとしたが、腕に力を込めてさらに強く抱きしめた。
「なにするのよ、やめなさい」母が困惑した声で言う。
私は黙って抱きしめ続けた。壊れたままの母の魂。私は泣いていた。
私が泣いていることに気づいて母はだまって動かなくなった。
手の先だけ伸ばして、コンロの火を消す。お味噌汁のいい匂いがする。

「お母さんのお味噌汁、好き」私はつぶやいた。
母は居心地わるそうに身体をもぞもぞさせてつぶやき返した。
「あんたは大根が好きだから」
母の髪は乾いてごわごわしていて、肩越しに見える手は赤くカサカサでひび割れている。

私は私の新しい魂と両腕に全ての力を込めて母に言った。
「ありがとう、お母さん」
ぎこちなく振り向いた母の顔は困ったように微笑んでいた。

おわり (2020/4 作)

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