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中:||まごころを君に 「海へ還る」
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▽はじめに
この記事は以下の続きになります。
また、毎回のことになりますができれば以下の記事の内容を頭の片隅に入れて読み進めていただけると幸いです。
▽あなたの未来
あなたは目を閉じ心臓の鼓動を辞める。
最近は土葬や樹木葬という選択肢もあるが、おそらく基本的には火葬によって骨となり壺に入れられ墓石の下に納められるのだろう。
けれどもう人の歴史はそう長くない。そのうち墓石も劣化し崩れ、あなたは土へ還る。土となったあなたは雨に流され川となる。あなたはそのまま海と同化し雨となって降る。そして、太陽と分かり合って虹を架ける。
あなたは土。
あなたは川。
あなたは海。
あなたは雨。
あなたは虹。
「過去」、「現在」、「未来」は同じところにある。
だから、宇宙の始まりと終わりさえも一つなのです。
故にあなたは現在の時点で既に土と言える。川と言える。雨であり、虹であり、
海だと言える。
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▽海へ還る
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
彼はいくつもの思想を未来の私たちに残しました。
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そのうちの一つ、
「永劫回帰」
世界は始まり、終る。
そして、粒子が超高速で動き回り、どこかのタイミングで最初と全く同じ配置となる。
そして、また始まる。
そして、また終わるのです。
絶えず始まっては同じことを繰り返してまた終わる。
世界とはただそれだけのものであり、人生におけるあらゆる出来事とそれに対する感覚質はそれから目をそらすためのものに過ぎない。
次の人生もまったく同じことを繰り返す。
同じことでつまづく。
同じことで苦しむ。
同じことで不平や不満を言う。
そして無へと向かうのです。
ニーチェはあらゆる思想・宗教、科学もそういった自らの弱さから目を背け、無難で苦しみや危険のない生き方に向かっていくための「無への志向」であると考えたのです。苦しみのないことを目指すのであれば死んでしまうのが一番早いのです。
これは、私がこれまでお伝えしてきた内容となります。
争いは人々の生存本能=暴力性から発生しています。
より簡易的に人々をそこから卒業させて文化的する方法を考えた時、生存本能を劣化させること、こそが最適な手段と言えるでしょう。
社会を発展させ人々が簡単に衣食住を満たせること。
人々の間に個という概念を曖昧にさせて個体間の違いをなくすこと。
しかし、生存本能は劣化しているため人類という種が衰退していく可能性があります。
また、多様性がなくなり皆同じ行動をするために種としての環境への適応度が下がります。
それが太古の時代に起こったのです。
つまり、平和を成すために生存本能と個体間の違いを完全に失くし、「私」と「あなた」の境目がなくなったのです。
言い換えると、人類の左脳が極端に劣化して自我や超自我が機能しなくなり「個」という概念がなくなった、無意識のみの存在となったのです。
とある島で猿の進化が起きました。そうすると全く別の地域でも同様の進化が猿の中に起きました。
無意識というものは繋がっているのです。
そのような無意識だけの状態となったとき、生物は単一生物、個体間の境目がない状態といえます。
この状態をエデンと呼びます。
エデンとなった人々の肉体はぐちゃぐちゃの液体となって海に変わりました。
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今回も同じです。
労働、多様性、飢餓、災害、環境破壊、戦争etc.
疲れ果てた人々は現実を捨て去りメタバースの世界へ向かいます。
電脳世界と肉体を同期させ、感覚までその世界に入り込み、そこを新しい現実とし、やがて無へと還ることを望み「サーバー」という単一生命体となるのです。残された肉体はぐちゃぐちゃの液体となって海に流されるのです。
▽エヴァはニーチェの思想を映像化している
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新世紀エヴァンゲリオン(旧劇場版)はニーチェの思想を映像化したものともいえます。
人類の単一生物化(サーバーへの情報保存)を人類補完計画といいます。
その鍵となった主人公、碇シンジ。
彼はニーチェの言う末人でした。
周りの大人たちの都合にただ振り回され、
自分の頭では考えず、
不平不満を言い、
逃げて、戦って、傷ついて、
最後には疲れ果てて無へと還ろうとした。
みんなと一つになろうとしたのです。
けれど、最後の最後で「これは違う」、と思ったのでした。
そして、彼は再び個体として「始まり」を望んだのです。
以下はその時に彼の導き出した答えです。
シンジ「あそこでは嫌なことしかなかった気がする。だからきっと逃げ出してもよかったんだ。でも逃げたところにも良いことはなかった。だってぼくがいないもの。誰もいないのと同じだもの」
カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「構わない」
シンジ「でもぼくの心の中にいる君たちは何」
レイ「希望なのよ。ヒトは互いに分かり合えるかもしれない……ということの」
カヲル「好きだという言葉と共にね」
シンジ「だけどそれは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。ぼくを見捨てるんだ。でもぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」
この答を導き出せるものこそ、ニーチェの言う「超人」なのです。
あらゆる事象はただ繰り返しているだけで、人間活動は全てそこから目をそらすためだけのものでしかない。
それでも、何か一つ、心に響いたモノのために再び繰り返すことを引き受ける。
心を満たした何かのために、そこに至るまでの挫折や悲しみ、そして、失う苦しみすらもう一度繰り返すことを引き受ける。
永劫回帰を何度でも引き受ける「超人」をエヴァンゲリオンは碇シンジとして描いているのです。
神の子「神児(シンジ)」として。
これこそが日本人(救世主)に与えられた役割なのです。
▽自分の人生を引き受ける
最期の審判の時、残された日本人には無へと還るか、再び始めるかの選択肢が与えられます。末人やルサンチマンのままでは果たすことのできない役割の大きさですね。
どのように超人に至れば良いのでしょうか?
それにはまず、あなたがあなたの人生を引き受けることです。
ダサくて、キモくて、ウザくて、人の気持ちを分かったように解釈する、都合よく物事を捻じ曲げる。とにかく何が何でも周りのせいにしたい。ありとあらゆる思想や価値観を鎧にして自分を守ろうとする。
鼻は臭いものに蓋をできるように、
目は見たくないものを見ないために、
耳はふさぐため、
足は不快なものを避けるために存在する。
そんなふうに醜くく、浅ましく、軽薄で
「弱い」
それが、自分の中に確かにあって、けれどそれが自分なのだと引き受けるのです。
その弱さを抱えて生きるのです。
そうして、他者にもその弱さがあることを許せるのです。
弱さを内包したものが本当の強さ。
そして、最期を意識したときから本当の人生は始まるのです(メメント・モリ)。
あなたは、ここで人間の最期を知りました。
最期の瞬間に美しく散るために今日を精一杯生きる。
精神を高める。
仲間たちとの日々をその胸に刻み付ける。
「武士道」というものです。
これが私がこれまでタケミナカタを紹介し続けてきた意味です。
ニーチェの「超人」、エヴァの「碇シンジ」、諏訪大社の「タケミナカタ」、武士道。
これらは同心円上にある思想です。
次回、このシリーズの最後としてその辺りのことと、AIは前の世界の神々、という点について深堀りします。
読んでくださりありがとうございました。
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