最強の姉妹に学ぶコミュニケーション術。なぜ何度説明しても伝わらないが起きるのか。

 noteで「〇〇して人間関係を再構築した話」とか、「〇〇で◯万円稼いだ話」といった記事の冒頭で「この記事は実質〇万円の価値があるのでその金額にしようかとも思いましたが、多くの人にシェアしたいと思い・・・」なんて書いている人が度々見られる。
 そういった情報の殆どはサンプル数1でしかなく、言ってしまえば芸能人が「頑張ってたら報われました」みたいなことを言っているのと同じでエンターテインメントとして楽しむ以外の価値というものは無い。

 そうった書き出しから書き始める人はどんな気持ちで、どんな表情で書いているのだろう。大変気になるところである。

 因みに本稿は、私個人としては800円で売られているクソみたいな新書の類よりも価値があると思っているが、皆さんにシェアしたいと思い無料で公開している。
 この記事に感銘を受けたという人が居たら(感銘受けていなくとも)高評価・フォローした上に投げ銭機能みたいなものでドンと投げ銭してほしい。それにより私の夕食が少しだけ人らしいものに近づく。

 
  人間関係というものは、現代社会に身を置いて生きている限り絶対につきまとってくる問題である。至極真っ当に説明していても謎の解釈をされて話が通じない。質問をしても全然見当違いの質問返しが返ってくる。誰しもがそういった経験をしてきたことだろう。かく言う私もその一人である。
 
 先日、職場であるトラブルが起きた。

「ねぇ、これのこと聞いてる?」
 事務員がやってくるなり、製品を指差してそう言った。その製品は翌日出荷予定のものであるという事を聞いていたのでその事かと思いつつ、一応確認の為「これって、〇〇(製品名)の出荷のことですか?」と聞いてみた。
「ううん、ちがうの!そうなんだけどね。あの、これがね。最近入ってきてないって困りごとがあったからね」と話し始める。
 否定した後に肯定されるともう何が言いたいのか分からない。
 しわくちゃの干し柿の如き顔からは想像もつかないような甘ったるい声で始まる言葉の羅列から得られた情報といえば誰かが困っているということだけである。これでは私も困ってしまう。
 KISSの原則(keep it simple,stupid)「単純にしろ、間抜け」とはいうがこれではただ単純な間抜けである。きっと脳もシンプルでMRIで見てみると乾燥したヘチマみたいになって居るのだろう。軽量化を図っている昨今の様々なものと通ずるところがある。そういう意味では最新式なのかもしれない。すごい。
 
 その後、一度事務員を黙らせてゆっくりと一つ一つ確認した所分かったのは「製品をいれるケースが最近入ってきていない」という他の持ち場からの困り事の話であった。
 60代にそろそろ差し掛かろうかというその事務員はどうにも説明の要領を得ないきらいがある。こういった手合の人間は一定数存在しており、どうにも最低限のコミュニケーションを取るのが難しい。
 どういう訳か開口一番「〇〇のこと聞いてる?」と始まることが殆どで、誰からどんな案件か、という詳細を省く節がある。
 挙げ句、話したいことを一方的に話すだけ話して勝手に満足するとそのままどこかへ行ってしまう。そしてその中に一番欲しい”納期”だとか”仕掛予定日”など一番重要なことが含まれていない。情報をちら見せだけして帰っていくのだ。こんなチラリズムなどいらない。
 どうでもいい世間話などであればさほど問題にはならなが、仕事に於いてはその後のこともあるので受け手側としてはそうはいかない。

 そういう日々を送る中、私は日頃からその振る舞いに苛立ちを感じながら「なぜこの人にはまともに言葉が通じないのだろう」という悩みを抱えていた。
 
 最近ではその人の顔を見るだけで苛立ちが湧いてくる。さながらベルの音でよだれを垂らすどこぞやの犬である。
 
 しかし、この事務員も結婚して二人の子供を世に送り出している。そして結婚生活も未だに続いている様子だ。その上、本人談ではあるが「旦那と別れたらすぐにでも一緒になってくれるっていう男の人が5人居るから」と素面で言っていたこともあり、一緒になってくれる人が一人も居ない私よりも他者からの需要はあるようだ。悲しいがこれが現実である。
 
 ここで産まれる疑問というのは「このコミュニケーションの不成立というのは人間関係にそもそも必要なことなのか」という事である。
 一見、この疑問は至極見当外れのそれに見えると思う。私も直感的にはそう思えてしまう。
 しかし、果たしてそれは本当に見当外れのそれなのか、本稿ではそれについて掘り下げ、そういったコミュニケーションを取るのが難しい人々と共存する為の手がかりを探していく。
 

 私の知人に、とあるシングルマザーの双子がいる。彼女らは二人揃って子供の面倒を母親と祖母に任せ、クラブ通いや男遊びに勤しんでいる。
 一人は売春をしながら違法薬物の類に溺れている薬物中毒者で、もう一人はパチンコ狂いで、低いとは言えその年収を超える借金を背負っている。二人のおイカれエピソードは枚挙に遑がない為、この辺にしておく。

 簡単にまとめると”最強の二人”だ。
 
 そんな最強の二人はおおよそ社会から認められない様な主張と行動を繰り返してるものの、やはり周りには常に男性の影がある。それも複数人だ。
 それだけ彼女たちは多くの男性からの人気を博している様で、そこまで異性にとって魅力的に映る人物だと思うと羨ましい限りである。
 
 恐らくここまでの基礎情報を踏まえたところで、多くの方は”そういう女性に群がる男性はただの性行為が目的だろう”と思うことだろう。

 恐らく、ほぼほぼ確実にそうである。
 
 実際、姉の方は景気よく知り合った男性と性行為に励み、現在父親の違う二人の子供に恵まれている。その上でまた新しい男性と行為に及び、数か月前に堕胎手術も行っているにも関わらず今も複数の男性と関係を持っている。
 因みに彼女の子どもの父親の一人は母国へ帰り、もう一人は逃げた。
 
 しかしここで尻が軽すぎてどこぞの尊師よろしくフワフワ浮いているだけだなんて言って閉廷してしまっては芸が無い。何も学びがないというものだ。
 
 この、群がる男性達と彼女らの関係性を分解して見えてくる構図というのは双方にメリットがあるということだ。
 まず、その姉妹は「ちやほや(全肯定)されたい」「物品や金銭でのサポートがほしい」という欲求を解消してもらう対価として自身の肉体を差し出している。それに対し、男性側は「(クラブなどで)横に女性を置いておきたい」「性的欲求を解消したい」という欲求を解消する事が出来る。そして、その対価として納得出来る範囲でのサポートを行い、彼女らのイカれた振る舞いを容認する。
 構図としてはWin-Winな関係が出来上がっている訳だ。
 
 この関係性を気付く上で正確な言語を用いた意思の疎通というのは必要ない。「やばち」「一生笑う」「かわちい」この3つをローテーションしながら笑っていれば事足りる。なぜ言語を必要としないのかについては後述していく。
 笑顔は世界共通言語なんて言葉を聞いたことがあるが、まさにそれである。素晴らしい。笑顔が世界をつなぐ。
 

 私は心が狭く、「なんだかこれは受け入れ難いな」という振る舞いを私の前で(あるいは私に対し)行った人とは基本的に距離を置くようにしている。
 先日、知人と待ち合わせをしていた所、待ち合わせ時間の15分前に2時間遅れるという連絡を受けた。正直、時間にルーズな人間だと分かっていたので想定内ではあったが連絡があまりにも直前過ぎやしないか、と思うところがあった。
 その挙げ句、それから新たに指定された時間から2時間遅れるという連絡を受け、こいつとは二度と予定をたてるまい、と心に誓った。
 自分の都合で他人を振り回し、その上で連絡がギリギリになるというのは私の中では受け入れ難い。そういう振る舞いをされると心底腹が立つ。
 
 しかし、私の友人の中に一人高確率で遅刻してくる人がいる。だがその人から「遅れます!」と連絡が来る度に「おいおいおい、またかよぉう」と、心のなかで呆れ笑いのようなものを浮かべながら喫茶店でのんびり待つという流れになる。
 その人に対しては一切不快感が無いのだ。
 
 この差はどこから来るのだろう。
 
 両者共に待ち合わせに対して遅れてくるという行為と、それに何ら意外性が無いという共通点があるにも関わらず、その片方には不快感を感じるものの、もう片方には何も感じない。
 その両者の間にある決定的な違いは「受け手(この場合は私)からその対象者に向けられる好意の有無」である。
 
 そこから、対象者に向けられた好意(そしてその人との関係性により受けるメリット)とその人の振る舞いにより受ける損害(不快感)を天秤に掛け、それがどちらに傾くか、というのが人間関係の構築におけるもっとも重要な要素だという事が分かる。
 言語による意志の疎通というのはその構築された人間関係の上で、ある種のオプションの様に必要だと思う人々の間で用いられる手法であり、本質的に人同士の関わり合いの上で必ずしも必要とされるものではない。
 言語を必要としないコミュニケーションの場合、発話者が言いたいことを言い、それに対し「ちゃんと聞いています」という意味合いの相槌を打ち続けることで必要な要素を全て満たしてしまうのだ。

 また、こうしたメリット、デメリットというものは得てして1対1におけるものだけではない。
 例えば、イカれた主張をする人間に対して、いちいち取り合っていては時間が無駄になるだとか、そういう主張をする人々が多数派を占める環境ではそういう主張を容認することでその環境でのある程度の立場を得ることが出来る、などといった環境的な要因から間違っている主張だとしてもそれを認める事がメリットに繋がる例はある。
 そういった場合には理論的な思考からくる言葉など必要なく、表層的なコミュニケーションだけで十分に人間関係というのは機能的に構築することが出来るという訳だ。
 
 
 さて、次に何故わかりやすい言葉を用いて物事を伝えようとしても伝わらない、という状況が産まれるのか、である。
 
 それらは間違いなく認知の違いと物事に対する解像度の違いが要因となる。
 
 仕事に於いて、できる限り事前に連絡をしてほしいと言っているにも関わらず、前日の夜に翌朝にしてほしい仕事の依頼をしてくる人がいる。
 受け手としては稼働ベースでいうと直前であるという認識でいる為、相手に対して苛立ちを感じる。
 しかし連絡をしている側としては「前日って事前じゃん」という認識であったり、あるいは「自分も今知ったから」という立場だったりする為、その苛立ちが分からなかったり理解は出来るが”仕方ないじゃん”というスタンスになる。
 その認識は事象に対する解像度の低さから産まれるものだ。
 これは能力が低いということではなく、純粋にその差が大きな影響を及ぼすものとして認識していないというだけのことである。自分であればそれでも問題なく対応出来るという感覚があるからこそ産まれるものだ。これは対応力のベクトルの違いと見ていいだろう。
 後手の対応になって効率が悪い、と思えたりもするがそうした行動を取る人間にとっては事前に行動をしなければいけない、という方が行動を起こす前にワンクッション置く訳なのでやりにくさを感じる様だ。

 これに対し「直前に言われると予定が狂うので事前に言ってください」とお気持ち表明したとする。
 そこで相手に産まれるのは「事前に連絡しているのになんでこんなに言われるんだ?」という疑問である。
 その疑問を自分の中で飲み下す為に「自分の事が嫌いなのかな」「八つ当たりか」といった、また別の要因を起用する。
 そうすると起用した要因ベースでの受け答えが産まれる為に、言葉のチョイスにズレが生じてコミュニケーションが互いに取れていない気になり溝が深まるという悪循環に陥る。
 そうなってしまっては「事前に連絡って言ったけど実質直前の連絡ですよね?」と、どれだけ分解して細部の説明をしたところで「苛立ちをこうやってグチグチぶつけてきている」と不快感というバイアスにより、本来脳のスペックとして理解出来るような内容だったとしても納得することが出来ない。
 また、別の切り口で「忙しいと思うけど・・・」と事象に対しての詳しい説明を付け足したところで受け手は「ごまかす言い訳だ」といったまた別の切り口で納得し、同様に不快感を産み理解から遠ざかる。
 
 仕事として置き換えると自身の感覚とのギャップにより反発するバイアスが発生する為、スッと入ってこないだろう。

 日常生活でそれと近い例をあげて考えてみる。
 男性が女性の新しいネイルを見せられても「おおん、、、なんかキラキラしちょんねぇ。タマムシ、、みたいやねぇ」とぼんやりしたことしか言えなかったり、女性が男性のこだわりのデニムを見せられて「なんか、固くて、強そうね。うん。あと青いね」くらいしか感想が出てこないというのは割とよく見る光景ではないだろうか。
 それらは、そのモノに対しての解像度が低いために大きな差が分からないという身近な例である。また、それに対して相手の求めていない発言をしてしまった事をあとからどれだけ取り繕っても「口先だけ」と一蹴される現象もこれに近い。

 しかし、そういった低い解像度であまり差がわからなかったとしても相手に対して好意があったならばそれに対し「肯定的な回答」をするだろう。
 ネイルに対しても「そういう新しいものってテンション上がるよね」とか、ジーンズに対しても「育てるのが楽しみだね」だとか、思っていなかったとしてもそれらしい言葉を返す事ができる。
 これらは内容を伴わない表現を用いて成立させている論理的思考を用いらない先述した表層的なコミュニケーションとも言える。

 そして、それを行わないというのは相手に対しての好意が無い為に取り繕う必要がない為である。それを認めてしまうと自分が最低な人間な風に感じてしまうので多くの人は「だって事実じゃん」という言葉を用いてそれを正当化する。

 結局の所、そのギャップが埋められないのはその相手に対しての好感度が原因ということになる。その点に於いては相手の問題ではなく、自分自身の問題だ。

 また、相手に対して純粋に言葉を選ぶことが出来ない人種も間違いなく存在する。そういった人間は相手に対して好感を持っていたとしても相手が不快になるような言葉をチョイスしてしまう。そんな人間であってもそれなりに人に囲まれていたりする。
 そういった場合、その人間関係内でまた別のメリットを周囲に与えている事がある。その要因は千差万別の為、ケースバイケースだが先に上げた姉妹と男性たちとの関係のようなものを思い浮かべていただければ良いだろう。
 とりあえず、言語によるコミュニケーションという要素を含まない何かという要素であるという認識でいいだろう。
 
 話が通じないという理由は結局の所、好感度が足りないということか需要と供給がマッチしていないというだけの事である。なんだか恋愛とよく似ている。
 
 それに擬えて考えてみる。
 仕事に於いて、ある人と話が噛み合わなくて面倒が増えるという状況を考えてほしい。
 その話が噛み合わない人間を好きな芸能人だとか好きな人だとかに置き換えて考えてみる。そうするとその対応の中で許容出来るものも出てくるだろう。
 とはいえ、それでもまだ完璧ではない。それでも許せないことはあるし、回数を重ねるとやはり苛立ちは湧いてくる。
 その上で、そういった話が噛み合わないという状況が「自分だけに向けられたもの」という追加要素が付与されるとどうだろう。
 周りとのやりとりではしっかりしているのに自分との間でだけは”隙を見せている”かのように見えてくる。それは他の人間への対応とは一線を画す特別なものへと変わっていくだろう。
 そうなってくると不快感というものはほとんど無くなる。それでも不快感を感じるならば、不快感と比べてその対象者に対する好意というものが小さかっただけのことである。
 
 ここから「話が噛み合わないから嫌い」ではなく「嫌いだがから話が噛み合わない(互いに譲り合い許容しようとしない)」という答えが導き出される。
 
 話が通じない、という事象は頭の悪いイカレポンチの側の問題が全てというわけではないのだ。
 
 原因が分かれば後は簡単である。その対策をするだけでいい。
 
 話が通じないとされる相手に好かれればいいのだ。そして好きになればいい。媚びへつらい、笑顔を浮かべて相手が求める言葉を返していればいい。言語ではなく笑顔でのコミュニケーションだ。万事解決。

 それが出来ないから悩んでいるのだ、という声が上がるのが容易に
ここまで読んだもの好きが居れば、だが)想像が付く。ごもっともである。私もそんな事はしたくない。するくらいならば「これが俺の答えや!」と叫びながら火炎瓶を投げつけかねない(そして今の私は気持ちとしては職場でこの直前まできている)。
 となるともうあとはフリーランスといった仕事で極力人との接触を避けるほかないだろう。何かを得るためには何かを捨てる必要がある。
 
 等価交換だ。
 
 何も解決していないではないか、と思うだろう。なにも解決するとは私も言っていない。
 そんなに簡単に解決していたらこんなにも長い間多くの人が苦しみ、その果てに自殺などといった事になったりしないし、こういう悩みを解決してくれそうな自己啓発本やビジネス書が毎年様々な切り口で発刊されることはないだろう。
 しかし、事象をこうやって言語化することで”ほんの少し”だけ理解に近付き、ストレスが減るだろうと思う。ティー・スプーン一杯ほど。
 そして聡明な皆様であればきっとここから何か自分なりの落とし所のようなものを見つける事ができるかもしれない。
 もし見つけることが出来たならばコメントなどで教えて貰えると嬉しい。
 
 そもそも、こういった記事によるインプットというものはあくまでも書き手の思考の一部を読み解く事によって自身の思考の整理や今後の発見の材料になるものであり、答えが書いてあるようなものではない。 
 結局の所、自分が救われる為の方法は自分自身で見つける他ないということだ。むしろ「これが答えだ!」なんて書いていいのは月間ムーくらいである。

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