裁判傍聴 窃盗 中卒無職

 手錠を掛けられ法廷に現れた男性は素足に便所サンダル。下はスウェットで上はグレーの長袖Tシャツ。シャツの袖は長く所謂萌え袖というやつだ。なんだか漫画デスノートのLを彷彿とさせるが彼ほどのインテリジェンスは感じられない。
 髪の毛は長く、センターパートではあったものの流行りのそれとはどこかが違うような代物で、眉毛も男らしい太い眉というよりはビオトープのように無管理で育て上げた様なものであった。
 恰幅のいい体は貫禄ではなく怠惰の積み重ねによる賜物な様で、望みを絶つと書いて絶望という表現がぴったりな様相だった。
 しかしそんな彼の表情は半分がマスクで隠れていたとはいえ、裁判の中でたまに笑顔を見せる様な様子も見て取れた。そういった立ち振舞いから”裁判”という事実の重さをあまり認識していない様に感じられる。
 
 男性は市内のブックオフにてゲームソフトやフィギュア等、時価14,000円相当を窃盗した疑いで逮捕された。これまでに同様の犯行を複数回繰り返しており、今回の逮捕はその執行猶予期間中の出来事であった。

 犯行動機には、勤務していたアルバイト先のパチンコ店が閉店し、2ヶ月ほどは給与保証などで食いつないでいたが就職活動も上手く行かず生活苦から転売目的での窃盗に手を出したと供述していた。
 生活苦の中、兄に借りれないかと声をかけたところ「忙しいから」と一蹴されたという。恐らく常習的に声を掛けすぎて親族からも爪弾きにされていたのだろう。そういった背景からもやはり生活を立て直す為に自発的に動く意志が欠如しているように感じられてならない。

 こういった手合の人間はなぜ返すアテがない(あるいはその返済計画が甘い)にも関わらず借りるという手法をまず取るのだろう。恐らくそれが一番頭を使わなくていいから、ということだろう。
 黒字倒産する会社があるように、資金繰りが厳しくなるということは誰にでも訪れる可能性はある。しかし実際そういった事象に陥ったときには借金をしたとしても計画的にそれを持ち直そうと努力をする。なにか事業をしていて不確定要素が多い人種と違い、今回の被告人の男や借金で身を滅ぼす人間は最低限の計画すら立てない。

 先日、今更ながら「パラサイト 半地下の家族」という映画を観た。登場人物の一人が「無計画が一番いい。生きていると上手く行かないことが多すぎる。無計画なら何が起きても関係ない」という内容のセリフを吐いていた。
 この一言がこの手合の人間のすべてを表しているような気がする。
 
 計画を立てる、というのは単純なものに見えて今までの経験を踏まえた「plan(計画)・do(実行)・check(評価)・action(改善)」の流れが必要になる。彼らにはそういった評価を下す経験が乏しく、問題に対しての改善がなされない。あるいは評価が間違っており起きる問題の根本原因を見極める事ができない。
 しかし彼らはそういった問題に対して「出来ない」ことを「やらないだけ」という自身の過剰評価をもって根本原因から目を逸らすというきらいがある。
 自ら土俵に上がらないだけ、というスタンスからは彼らの「やりたくはないが、自分は評価される対象でありたい」という浅はかなプライドが感じられる。
 その自尊心が自らを殺す要素となる気がするが、それ以前にそんな自分を「尊い」と思える心というのは私も見習わなければならない。その心があれば世界はもっと明るく見えることだろう。
 
 その光が自身を焼き尽くす炎だとしても。

 
 彼は中卒で普通自動車運転免許を筆頭に何も資格がなく、40代を目前にした年齢も相まってハローワークで求人を探したが見つからず、行政に頼るために生活保護の申請にも行ったが支給までに2ヶ月掛かるといわれ断念したという。
 それに対し、検察や裁判官からは「それでも申請しておけばよかったのでは」という至極真っ当な声が上がっていた。
 男の言い分としては「受け取るまでが苦しいから申請しても仕方ない」と思ったという。
 それは外野から見ると単純な足し算引き算の問題に見えてならないが本人としてはそういう訳では無いのだろう。
 彼の持つ性質からくる強いこだわりが出たのか、あるいは「そんな先の事じゃなくて今どうにかしてほしいのに!じゃあもういいです!」という癇癪か。

 一定数、情報(それも役所関係、契約書などのおかたいそれ)量が自身のキャパシティを超えると思考停止し、”諦め”だったり一種のヒステリーの様に大きな声を出すことで解決を促す人間が居る。
 
 実際、私の前職や現職場でも「あー!もういい!もういいっすわ!」と大きな声で周りを威嚇しながらあたかも自分が世界から見捨てられた被害者であるかのように振る舞うことですべてを解決しようとする人間を多数見てきた(なんなら今の職場にも複数人居る)。
 中身が無い分、音の大きさで相手に自分の気持を伝えようとでもしているのだろうか。大変興味深い。
 
 他者から見ると甘い様に感じられてならないが、それでも彼は彼なりに考えては居たようで、今までほぼ毎日外食をしていたがそれも辞め自炊と半額の惣菜で食いつないでいたという。
 趣味のゲームも今までは月平均1〜2万、多くて3〜4万の課金もしていたがそれも辞め、タバコも本数を減らし彼なりに努力をしていた旨主張していた。
 しかし検察からは「今までやっていた仕事と同業種の仕事であれば見つかったのでは」「インターネットでハローワークの求人以外を見たのか」「派遣社員などの登録はしたのか」と怒涛のツッコミが入っていた。
 ごもっともである。節約も大切だが根本がズレている。やるべきことは職探しである。

 この事件の被告人を筆頭に対症療法的な行動ばかりで原因療法的な行動を起こさない人間は世間を見ていて少なくない様に感じる。これらは先の事を考えられないというよりは考えないという事を選択している様に思える。
 原因を抑え、解決するという手法はすぐに問題の解決が行われるという類のものではない。彼らは”今”という確実なモノにのみフォーカスしているが故に起きた問題に対処するという手法を取っている。
 実際、不確かで存在するかもわからないモノ(未来)に対して希望を持ち続け、夢を追いかけるあまりに生活を破綻させる人々もいる。そういった人々と比べると確実に存在するものにしがみつくというのもあながち間違っていないとも言える。
 しかし、そういった考えは現代社会に於いて多数派とされる価値観からはどうしても外れてしまう。そういったエッセンスは適量ならば生きやすさに繋がるが傾倒しすぎるとやはり世間に馴染むことが難しくなってしまう。
 さぞ生き辛いことだろう。


 男は検察からの怒涛のツッコミに対し「派遣は昔切られたことがあって嫌だった」と答えていた。
 それを聞いて彼に関しては切られた理由は彼の働きぶりもあったのでは、と(完全な偏見ではあるが)どうしても思わずには居られなかった。職を失ってからの彼の動きなどからもそれを強く感じられる。

 また、保護観察官の調書では仕事を選り好みするような発言も多数あった様で、彼の「見つからなかった」というのはやはり些か甘い主張に思える。多少の好き嫌いはあれどやはり生活がままならないということであれば(そして犯罪を犯すくらいならば)、切られるリスクを背負ってでも派遣会社に登録するべきであろう。

 そして、アルバイト先が閉店した事と併せて事件当時交際していた女性が妊娠した為その中絶費用が必要になり一層生活が困窮する結果となったのも一因となったという。
 それを聞いてどうしてもパパ活や援助交際により関係を持った女性から騙し取られたのでは、と思えてならなかった。しかしそれを知るのは当事者のみである。そういう歪んだ色眼鏡を通して見てしまうのは私にそういう相手が居ないことからくる嫉妬心故だろうか。くやしい。
 

 こういうどうしようもない事件の裁判では、被告人の言葉を片っ端から検察が潰していくかの様な光景をよく目にする。
 実際、素人目にみていても供述がアニメで見るチーズの様に穴ぼこまみれでツッコミどころしかないかのように見えるものがほとんどなので仕方ないと思いもするが、それでもこれ以上突っ込んでも無駄だよな、と思える事が多々ある。
 そういう姿を見る度に検察がサンドバッグを殴り続け、ほつれた隙間からこぼれ出た物をこれ見よがしに裁判官に見せつけている様に見えてくる。しかし、もし自分が検察側であったなら被告人たちの稚拙で自分勝手な言い分を聞いているとやはり苛立ち、彼らと同じ様にサンドバッグに拳を突き立てることになるだろうな、とも思う。

 以前、彼が同様の犯行で逮捕された際に「この商品は別の店舗で盗んだものだ」という嘘の供述をしていた様で「今回は間違いなく該当店舗で盗んだものか」といった趣旨の質問を検察に投げかけられていた。
 証拠等々でそれは間違いないものであるがわざわざ裁判の中盤でそういう声が出るところ、検察からの「嘘を吐き罪を逃れようとするタイプだ」という裁判官へのメッセージだろう。
 こういう演出はこの裁判においてどれほどの効果があるのだろう。もはや被告人に対しての精神攻撃に近く、場違いな質問に思えてならないがこういった質問を投げる検察は多数目にするのでそういうラインで攻める手法が彼らの中の定石手として存在するのかもしれない。
 日本での長い裁判の歴史のなかで少しずつ攻める手法も変化していき、こういう手筋が生まれて来たのかもしれない。「直近で一番弱い言葉を集中砲火し、そこから生まれたほころびをまた集中砲火。相手から手を奪って詰み筋を探しましょう」とか教科書に書かれていたりして。
 

 今回、執行猶予中に起こした事件ということもあり、法廷には彼を庇う人間は居ないかのように思えたがそんな中でも救いの手を差し伸べる人間は居た。
 
 部外者の私としても、つい厳しい目で検察側に同調して見てしまう彼の主張に対し、滝沢カレンに似たハーフ顔の裁判官はまるで子供に話しかけるかのように穏やかに、そして優しく問いかけた。
「保護観察にあまり行っていなかったみたいだけどなにかあったのかな?」「あまり意味なかった?」とどこか悲しげな含みを持たせた言葉に流石の被告人も「そんなことはありません!」「行きたかったけれどその時は携帯をもっていなくて連絡が取れずいけませんでした。でも契約してからは行ってました!」と焦りのようなものを撒き散らしながら答えていた。
 良心に訴えかけるにしてもこういう第三者を巻き込んだ手法を用いると効果が大きくなるようだ。そしてこの場では不適切な表現だが”きれいな女性による言葉”というのも大きな要素となっていそうだ。参考にはならないが大変勉強になる。
 ただ執行猶予期間中に同様の犯罪を犯しているところ、そういった優しさの効果も一過性のものでしか無いように見えてならない。これは私が物事を些か冷笑的にみてしまう性格ゆえにそう見えてしまうだけだろうか。
 
 犯罪に走った根本的な理由として自身の金銭の管理が甘く貯蓄がなかった事なども大きかったと本人は認め、そういった面でも改善していくという声が出た。こういう裁判では珍しい(比較的)ちゃんとした改善案が出されており大変驚かされた。
 とはいえ、なんだかここまで来てしまった人は生活を立て直すのに凄まじい労力が必要になる。彼の行動、言動なんかを鑑みてここから改善することが出来るのかというのは疑問である。良くも悪くも人間というのは環境に併せて適応していく生き物だ。場末的生活環境に慣れるとそれが当たり前の様になりそこから抜け出すのは難しい。
 私自身、金銭の管理が甘いという自覚がある。なんだかこういう人たちを見るとあまり他人事に思えない。要領の悪さというか、間の悪さというか。私も節制して暮らしていかねば、と思いながら最近馬鹿みたいに服を買ってしまっている。挙句の果てに外食までやめられない。せめてもの救いは車のローンを払い終えたので借金は無いというところだけだ。
 
 
 求刑は懲役2年。それに対し弁護側は執行猶予付きの判決を求め、次回判決。いっそ懲役刑で生活を立て直したほうが良いのでは、と思えてならないが自分に置き換えて考えてみるとなんだかそれも難しい気がする。
 私であったら懲役刑の後、社会に出たところで自身の犯罪歴からくる周囲の評価を言い訳に仕事が続かず坂道を転げ落ちて行く未来が見える。
 
 勢いというものは上に登るものと比べて坂を下るものの方が勢いは増す。その勢いはそう簡単に止めることはできない。


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