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文学の授業はなぜ必要か?

7月10日(金)、授業づくりネットワークの理事長をされている石川晋先生の連続講座in国立が昨日開かれた。

石川先生の講座は、行くたびに「大切なこと」を見つけたり、見つからず考えさせられたり、再確認できたりと、いろいろな思考がぐるぐる巡る。仕事後で疲れているはずなのに、講座が終わるといつも気分がスッキリしている。

不思議だな〜。

さて、今回のテーマは「文学の授業はなぜ必要か?」だった。

昨年度もこのテーマの講座に参加したが、今回はまた違う切り口での内容だった。

まず、司馬遼太郎の「無名の人」を読んだ。

私は、歴史が好きで、特に幕末が好きなので司馬遼太郎のほとんどフィクションでありながら読み手をグッとその時代に、その人に近づける表現力にワクワクしながら読んでいた。

読了後は、「なんかすごいしみたな〜。こんな人がいたってことと、司馬遼太郎の描き方にじ〜んときた」という思いが不図あらわれた。

石川先生から「これをみなさんならどう授業しますかね」と問われる。

私の頭の中は突然フリーズする。

石川先生のそういった質問を予想していたのかもしれないが、頭が自然とそういったことを考えることを避けている感覚だった。

私の中で起こった気持ちの動きはこうだった。

「この作品の感動を、“授業”という形で思い描けない。そもそも、作品の内容のすばらしさ、著者の表現力のすばらしさを、子どもたちにも味わってもらいたいという思いで、授業に臨んだ経験が、俺にはあるのか。」

そんな事を考えていると、石川先生から

「小学校のように「はじめ」「中」「終わり」で読むべきですか?それだと、この文章のすばらしさには気付けないですよね。」

「はじめ」「中」「おわり」を意識して、授業を計画しようとはしていなかったにせよ、そういったいわゆる指導書通りの授業観が、「無名の人」を授業することへの思考を邪魔していたのかもしれない。

作品のよさや特徴をまるごと感じ、共有し合えることって文学を授業するために重要な視点だと感じた。

“こういったスキルを使えばこう読ませることができる”というように、教える側のテクニックが優先された指導って、文学を授業する際には、一度立ち止まって考える必要があると感じた。

詩歌についてのお話もあった。

詩歌について、私個人のこととしては、前々任校になるが、まだ講師だった頃同じ学年を組んだ方が俳句指導にとても専門的で、いろいろと教えていただいた。その先生とは、今もずっとつながりをもたせていただいている。前々任校、前任校では、俳句や短歌のさまざまな指導を実践したし、自分で俳句や短歌を作って応募することまでしていた。でも、現任校に来てからは、気付けばやっていない。

石川先生が紹介くださった歌集は桑原憂太郎さんの「Don’t Look Back」にある短歌だった。学校や教室での出来事、子どもの特徴や行動などを七五調に乗せて表現されている。短歌だから短いわけだが、映像が浮かんでくるような歌ばかりだった。

この歌集を通じて、学校や教室でのできごと、子ども、教師の思いを物語として綴る教師が圧倒的に少なくなってしまったことへと話が進んだ。

物語を書き綴るということ、教師が物語を子どもと編んでいくことの大切さに気付けた。しかし、その“物語”とは教師の独りよがりの物語ではなく、“子どもたちと編む物語”であることへの意識を落としてはいけない。ここは注意し続けていきたい点だ。

石川先生は、物語を綴らなくなった、いや、綴れなくなった教師が増えている要因として、教師自身が日常に物語を“読む”ことをしなくなったからだという。このお話を聞いていて頭にあることがぐるぐるし始めた。

私は、ある管理職からの話を思い出したのだ。

「本読んでるか?でも、読書といっても、小説とかじゃダメだぞ」

と。小説がダメ=物語を読むことはダメだということになる。管理職レベルでそういうことを私たち若手や中堅に言ってしまうことに、恐ろしさすら感じる。

どの地域でも、物語に触れず、物語を綴れない教師が多いのだと思う。また、教師や大人が物語を描けないという現状から、子どもたちが自分の物語、つまり自分の人生を描けなくなっているという視点は重要だ。

教師は、未来を生きる子どもよりもちょっと先に生きていて、教育という専門的な分野につとめている以上、人間を育てるという責務がある。子どもが将来をのびのびと描けるためにも、教師自身が物語に触れ、物語を綴ることは大切なことだと気付くことができた。

最後に、ここに記録しておきたいことは、「戦争」についてである。

石川先生は、原爆詩の授業実践のお話を通して、

「今、“戦争”を子どもたちに語る教師がいなくなっている」

と。このことについては、私自身、まずいことだと感じてきた。だから、石川先生のこのお話に、深く頷けた。

でも、私はこれまで学級通信や朝の会で沖縄戦の組織的な攻撃の終結、広島と長崎の原爆投下、真珠湾戦争、東京大空襲をそれぞれの日に綴ったり、話したりはしてきたが、“戦争”をテーマに授業をしたことがない。

6年担任だった頃は、歴史の学習の中で丁寧扱ってはいたが。

講座の終わりに話題となった戦争についてのお話が、妙に心にズシッと残り、動かされる思いになった。

講座を終え、自宅でビールを飲みながらボーっと講座のことをぼんやりと振り返っていた時、

「6年生の担任にお願いして、“戦争”をテーマにした授業、やらせてもらおうかな」

と思いついた。しっかりと準備をし、相談して戦争について授業してみたいと思う。

今回の講座は、文学を読んだり、どう授業したりするのかというだけにとどまらず、教師が物語を綴ること、子どもと物語を編むこと、教師は戦争の事実を継承していくといった内容だった。振り返ると、今後の教師人生においても、大切なことに気付き、考えることのできた時間だった。

短歌の結社にちょっとだが入ったことがあるくらいハマった短歌づくり、視点を変えて、また始めようかな〜。

それにしても、今回の講座も楽しかった〜。

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