「偏向報道」と「ヘイト」
オールドメディアの広告分離
一般の新聞では、「広告主」が紙面内容に影響を及ぼさないよう、非常に厳格に、記事と広告が分けられている。
上が記事、下が広告だが、編集局内で点検用に配布される「ゲラ(試し刷り)」も、下の広告部分は白いままだ。
紙面内容が確定、「降版」ボタンを押して、上の記事部分が印刷工場へ送られる途中で、同様に確定してきた下の広告部分と結合され、初めて1頁の新聞になる。
東北新幹線やまびこと山形新幹線つばさが、福島駅でくっついて東京に行く。あんな感じです。
紙面を送信後、記事で「脱税で摘発」の企業が、その下に広告を出していたことが判明し、ばたばたと広告だけ別の物に差し替える騒ぎを目撃したことがある。それでも記事は変わらない。
誰がコストを負担するのか
Webコンテンツでは「誰がコストを負担するのか?」がよく問題になる。
本当は、お金をもらって書いている広告と、ジャーナリズムに基づく記事は、厳格に区別されるべきなんでしょう。
だが、ネットでは規制がないので「記事風広告」が多い。
広告なのを隠しているので「ステルスマーケティング」縮めて「ステマ」などと呼ばれます。
広告主がいない場合、低率のクリック収入に頼るので、人を釣りやすく作ります。本文と乖離した「釣り見出し」や、取材によらない憶測による中傷、弱者叩きや陰謀論、ミニスカ、等です。
こうしたネット媒体に比べると、新聞は広告からの独立が確立していて、恵まれた言論環境にあったと言えます。
広告からの独立は、100年以上の年月をかけて、作ってきたものです。
もし、いま、ある企業が。
「不祥事を載せるなんてケシカラン、広告は全部、引き揚げる」と表明したら、その企業は逆に、社会から非難を浴びるでしょう。
大企業は儲けてる見返りに「内容には口は出さずに」大衆の情報確保に銭を払う、これにより社会的な敬意をうけて、社業が永続する。
こういうバランスというか生態系というか、何十年もかけて、企業と報道機関と大衆の3者が慣例を作ってきたわけです。こういうのを商業ジャーナリズムと言います。
この3すくみの中で、大衆の利益を担当するのが特ダネ記者、企業への還元を担当するのが広告クリエーターかな。
(本当はもっと複雑なので割愛しています、疑問があればコメントで)
♪いーややいやや せーんせにゆーたーろ
こうして、企業と報道と大衆が「金は出すけど口は出さん」の形で、情報提供システムを保証してきました。
企業が「金出してんだから良く書け」と言ってきたとします。報道機関は、これを突っぱねるのがルールです。大衆もそれを支持します。
もしも報道機関に不心得者がいて「♪いーややいやや おーこられるおこられる」と、ルールを守る者をトラブルメーカーだと騒いだとします。
不心得者は、企業から金をもらうわけでもなく、単に、自分より優れた従業員を排除したい、という動機で、情報提供システムを削り崩すわけです。
本人は報道機関を永続させているつもりで、逆に長期的な存在価値を崩していくのです。
こうした「せーんせにゆーたろ」人種が現れた時、周囲はどうすべきか?
これを取り押さえるためには、まず、粛清されずに生き残ることを考えねばいけません。とりあえず迎合しましょう。
と、いうわけで。
目に見えにくい長期的な不利益は無視して、見えやすい目先の利益を優先。
自団体の権利を少しずつ返上していくのが、個人の生き残りの道になります。
マスコミの権力迎合
以上、マスコミが権力に弱腰、というか自発的に批判能力を返上していく仕組み、を書いてみました。
もっと具体的に言えば「化学調味料→うまみ調味料」ですw
読者の皆さんが期待するベタな圧力、「チミィ困るんだよ」に佐藤浩市がメンチ切るドラマはありません(偉い人にはあるかも、俺が知らんだけでw)。
さて、ここまでが前振りです。
「せーんせにゆーたーろ」人種が現れた時に、自分の身を守って、集団の権利を自発的に返上していくこと、大衆の側にもありませんか?
(ここが、この雑文の骨子です。皆さんはいくら言っても聞いてくれないので、皆さんの大好きなマスコミ批判の形で書いてみました。ここまで読んでしまった人は、はっきり言うとダマされたわけです。ごめんなさいw)
ジャニーズ、トヨタ、介護職、教師、遺族、宝塚、児童虐待、ジェンダー、五輪、万博、与党、被災地、松本人志……
最近、弱ってしまったものも多いですがw
「これに言及したら炎上」
「正しいことだから批判してはいけない」
こういう、妙な圧を伴ったヴォルデモートが、ネットには多いですよね。
特に、ジェンダーや児童虐待など、社会的弱者をタテにした政策キャンペーンは、左翼や弁護士や有名人まで行政と手を組む。無敵です。
当事者が政策に苦言を述べたら「差別主義者」だと粛清される。
それを見た人は、沈黙するか迎合するか。
主張が無茶であるほど、踏み絵として、かえってニラミを利かせられるという仕組みは、戦時中を思わせるものです。
昭和時代だと、権力と大衆の間にはマスコミがありました。
(マスコミ、というと「悪者」と脊髄反射しちゃうでしょうが)
略語を元に戻すと「マス(集団)コミュニケーション」。
つまり、大衆側をまとめた世論が、権力側と団体交渉している状態だったわけです。
マスコミを廃して。個人ひとりひとりが直接、権力と対する。
または世論形成の場で個人が意見を発表する。
そりゃ心細いから、権力寄りを表明するに決まっています。
学級会で、担任が生徒を抑え込みたい時に、頭の悪い奴から順に1人ずつ当てて賛否を言わせる手法と同じですねw。ネット世論、報道無用論ってのは、学級会のアレです。
また、反権力的な人であっても、1人1人の意見を持たず、最も声の大きな者を代弁者にして「彼に賛成である」という形をとります。もし代弁者が権力側の仕込みなら、権力批判者たちの信任状を手に、叫んで、暴れて、勝手に負けて、終わりです。
行き過ぎた相互監視
女性差別も、児童虐待も、誹謗中傷も、あってはならないことです。
見付けたら司法的処置を取ればいい。
司法的処置がアレなら社会的にアレするのもあっていいんじゃないか、それが社会を前進させることもある。
ですが、現状では「予防」の美名のもと。
大衆が相互監視を強め、恐れ、楽しみ。
♪せーんせにゆーたーろ、ヤリ過ぎてんじゃないですかね?
Twitterが荒廃して、大衆がコミュニケーションを取れない。
極右運動家は「行き過ぎたポリコレが原因だ」と徹底抗戦を唱える。
商業左翼は「ヘイトが原因、我々は官軍だ」とジハードを呼びかける。
戦争の常で、扇動家は死にません。
やればやるほど「肉屋を支持する豚」な構図。
大衆は己の被害体験を元に戦い、さらに被害が増える、永久機関に陥ります。
交渉団体だったマスメディアを廃し、一人で発信する寂しさに「うちに入れば集団で敵を叩けるよ」。これ、カルトと変わらんからね。
大衆が大衆を糾弾するの、ちょっと休んでみては如何でしょう?
次々に官製キャンペーンを与えられ「自分が官軍になろう」と敵を探し続けていたら、疲れますよ。
冷戦終結から30年以上、経っています。
世の中を「左/右」で捉えるのは無理があります
社会を左/右で分けて解釈できるとしたら、それは扇動家に洗脳されてんです。
既得権者と利権ない者、搾取する奴される奴、そう分けるなら、まだ分かるが。
大衆が漠然と感じている不満、都合よく体系化して自派戦闘員に囲い込む。
その体系化がムリヤリ過ぎて、納得できない奴がハミ出して、もっとムリヤリな物に引っかかる……これが陰謀論でしょうw
既存勢力や世論操作に嘘が多すぎるのが、陰謀論が流行る一因かもしれません。
皆さん、いらいら、いらいらしながら、それでも官軍になりたくて、糾弾できる相手を探す。右も左も、フェミもアニメも鉄も、同じことです。
お役人や政治家、プラットフォーマーや運動家や代理店は、持った権力に酔いながら、次々と新しいテーマを投げ与え「一切の批判が存在しない」美しい社会を作ろうとします。
(圧倒的な力を持った時に何をするか?その品格が出るのは、かつての巨人のFA打線も、有名人の強姦も、教員の内申書も、同じですなw)
「一切の批判が存在しない」社会。
自分が民主主義社会を破壊しているとの自覚もなく、サラリーマンが惰性で提出する「販売促進プランのパワポ」程度に、新しい「社会悪」を量産している。
力ある者たちも、頭が悪すぎて、この状態を止めようとも思わず惰性で、肉屋豚にひれ伏される状態を楽しんでいる。
お互いが「取り締まる側」になろうとして、大衆が大衆を監視する社会。
ちょっと立ち止まって考えなおした方が良いですよ。
その、不満感、焦り、敵への憎しみ。
政治家や代理店やネット企業の、展望なき「頭の悪さ」に踊らされているだけです。
♪いーややいやや せーんせにゆーたろ 止めましょう。
以上、恐怖心と快感を植え付けられた大衆が、相互監視の中毒になり、自発的に自由を返上し、その不満からさらに相互監視を強める悪循環について、マスコミ批判を装って構図を説明する試みを行い、あまり上手くいかなかった文章でした。お粗末。
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