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【国民投票法改正案について】投票のしやすさは必ずしも良くはない

最近、国民投票法改正案なるものが可決された。

これは人々が投票しやすくなる法案であり、とても良いもののように思えるが、実際は人々が投票しやすくなることは悪法なのである。

人々が直接に政治的な事柄を決めていくと、それは全体主義の第一歩であるからなのだ。

これだけ言うと理解されにくいので順を追って説明をしていく、最後まで読んでくれると嬉しい。

理想の政治

そもそも理想の政治とはなにかここで明記しておく。(個々人の意見によるので僕なりのものです)

理想の政治とは、理性的な市民から選ばれた絶対知に限りなく近いリーダーが行うものである。

かみ砕くとすごく頭の良い人が行う政治こそ良いという話。

このリーダーは合理的な判断ができるために、市民の最大幸福を実現する道筋がわかる。

極端な話、こんな人が政治を担えば世界はうまくいくのだが、そんな人はいないし、その人を選ぶ手段がないの実状だ。

ただこれが理想の政治であることは頭の片隅に入れて読み進めていただきたい。

次に政治構造の話をする。


健全な政治的構造

政治はピラミッドのような構造である。市民が最下部にいて、そこから選ばれた議員が中間層にいて、最上部にはリーダーがいる。

この構造においては、中間層の議員が市民の声を理性的に判断して、市民のためになるようにリーダーを選ぶ(決断をする)。

例えば国民が毎日キャンディを食べたいと言ってもそれでは糖尿病になり甘いものを長らく食べられなくなるから、
キャンディを毎日食べたがっても(甘いものを食べたい)、理性的な中間層は、普段バランスの取れた食事をとらせて時々キャンディを与える決断をするのである。

問題のある政治的構造

ここで、もし中間層がなくなり国民の声が直接最上部に届くことになったら(ピラミッドが二層に)それは全体主義的で問題と言える。

なぜかと言うと市民のすべてが理性的ではないからである。

※ここでの理性的とは議論を尽くす等によりある程度の知識を得て正しく使えることを指しており、決して選民的な思想でないことはご理解いただきたい。

先ほどのたとえでいうと、キャンディを食べたがる国民の意見(非理性的)をそのまま鵜呑みにして彼らが喜ぶようにキャンディを与え続け、国民を不幸にするシステムである。

さらにはこの際にサラダを食べたいという国民が3,4割ほどいても無視するのがこのシステムである。

なんとなく問題性を理解できただろうか?


国民投票とは

ここまでお読みいただくとなんとなくわかってくるかとは思うが、
国民投票とは、国民が直接決定を下すシステムなので問題のある政治的構造なのである。

キャンディを毎日欲しがる国民に、キャンディを毎日与えてしまう仕組みなのである。

ただ主権は国民にあるこの日本において、権力をしばる憲法を変える際に国民投票が必要というのは頷ける。

しかし非理性的な人が多くいる状況でただ投票をしやすくするというのは、国全体が非理性的な選択をしやすくなることにつながるのだ。

※ここでの非理性的とは、そもそもの議題等に関してあまり詳しくなく合理的な選択をできない人です。決して選民的な思想でないことはご理解ください。

おかしくない?

ここまで言うと疑問が出てくる人もいるかと思う。

「私たち10人のグループでみんなが参加して物事を決めていくけど、それは問題なんですか?」

これは問題ではない。というのも議論が行われているだろうからだ。そして構成員が理性的になっているだろうからだ。

おそらく10人ほどのグループで物事を進める際にはきちんと話し合う。自分の意見だけでなく他人の意見も聞き、物事を多角的にみて将来のことも考え、各々がその問題に関して理性的になる。

きちんと話し合ったあとで採決を取れば、各々は理性的になっているためにグループとして良い決断を下せるのである。

国民がイエス・ノーの表明しかできない国民投票とは全く性質が違うのだ。

良い憲法改正を行うには

ここまでの話をまとめよう。

政治とは理性的な人に行われるべきであり、今それはある程度理性的な政治家によって担われている。

ただ、国民投票法は非理性的な国民の参画を多数許すものであり、改正案はそれを加速させるものである。結果として国は非理性的な決断を行うことになる。

ただこの改正はある条件下においては改悪とは言えない。

ここまでお読みの方はお気づきかもしれないが、現状の日本において国民投票法改正が悪いだけであるのだ。

つまり国民がみな理性的であれば国民が直接に声を上げるのは決して問題ではないのだ。議員というクッション材を介さずとも理性的な判断ができるのだから。

理想論ではあるが、国民全員が理性的になること。これが良い憲法改正に欠かせないものだ。

理性的な国民をつくるには

では国民を理性的にするためにはどうすればいいのだろうか。少し前の章で述べたところにヒントはある。

つまり議論をすればよいのだ。

賛成派や反対派、一部反対派など様々な意見を持つ人を並べて議論をさせる。議論をして相手の見方を吸収して視野を広める。自分の論を強めるために知識を吸収する。自分の利益だけでなく、もっと全体的な先の利益も考え出す。

こうして市民は理性的になっていく。

理性的になった市民は、国家のために判断をして投票をする。

こうしたら理性的な国家運営ができるのであろう。


つまり政治的関心を高めていくことが良い政治につながる。

ただ投票率を上げるだけでは非理性的な政治が行われるにすぎないのだ。(普段の選挙では議員というクッションがあるので別)


まとめ

まとめると、
政治は理性的な意見のもとで行われるべきである。
ただ国民投票法改正案は多くの非理性的な市民が直接に参画することを許すので、非理性的な決断が行われる可能性を高めており問題である。


個人的な意見

とまあ、ここまで書いたわけですが、やっぱり日本人の政治関心は低い(理性的になりにくい)ので国民投票法改正案には反対ですね。

投票条件が平等でありつつも厳しかったら(決まった時間しか投票できないなど)
そこまで興味を持っていない非理性的な人は投票をしにくいのである程度健全な政治を守ることができるのですが、投票をしやすくなるとそういうこともないんですよね。

気軽に投票をできちゃう。あまり関心をもっていない人でも。

そもそも議員選出選挙と、国民投票は、ピラミッドの構造が違うので、公職選挙法という同じ枠組みを当てはめていいものではないんですよ。

広告どうこうも大事なのだけれど、ここがそもそも大事です。


また今回は書かなかったんですけど、投票をしやすくなると賛成票のみが増えやすくなるようにも思います。

というのも賛成の人って基本的に賛成票を入れるんですけど、反対の人って政治に対する不信を示すために無効票を出したりそもそも選挙へ行かなかったりするんですよね。

期間が長くなってもそういう人は反対票を入れないんですよ。だから自然と賛成比率が高まっていくように思います。
(賄賂や癒着どうこうの話もできますね。今回はしませんが)


ただまあここまで来たら仕方ないので、国民の政治関心を高めて理性的にしていきましょう。

憲法はあくまで権力者を縛るものなので、僕は断固として改正に反対しますが、
理性的になった国民が憲法改正を選ぶのなら仕方がありません。

きっと僕が客観的に間違っているのでしょう。


まあまあとにかくこの記事を読んだ方はまずこの記事を広めてください。国民投票が諸刃の剣ということをお伝えください。

そのうえで周りの政治関心を高めてください。活発に政治議論を行ってください。全然ダサくないしむしろカッコいいんで

それができればきっとこの国は良い方向へ向かいます。

いま政治家に理性的な人がならない傾向が強まっているように思います。ならしょうがない私たち市民が理性的になりましょう。

知は武器である。これをわすれないでください。

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