『近代体操』第2号「特集=やわらかな聖なるもの」刊行情報(2024年12月)
創刊号の発刊から2年。
私たち『近代体操』は、第2号を刊行します。
特集テーマは「やわらかな聖なるもの――推し・宗教・陰謀の時代」。
販売開始は、文学フリマ東京39(2024年12月1日)より。当日は、G30のブースでお待ちしています。
この記事では、内容紹介や購入の案内などを行っております。
〇第2号のコンセプト
全体のデザインを前回と同じく湯田冴さんにお願いし、表紙や口絵の写真は千賀健史さんのものを使わせてもらっています。
特集タイトルは「やわらかな聖なるもの」。同人外の参加者も巻き込んで、1年続けた読書会の成果をぶつける場所になっています。
「聖なるもの」は単に宗教や信仰だけにかかわる概念ではありません。日常に聖性を見出そうとするとき私たちはそれを詩として昇華しますし、閉塞した社会に聖なる救世主が現れると考えればそれは陰謀論につながります。また、好きなアイドルやライバーを「尊い」ものとしてあがめる目線は、推しを「聖なるもの」と見出す視線なのだと言えるでしょう。
こうした現代的な「聖なるもの」は、大いなる「父」のようにこちらを抑圧する、打倒すべき存在としてはあらわれません。むしろ、「母」的な癒着、「やわらかさ」として批判や攻撃をかわすでしょう。
私たちはいま問題にすべきは、大文字の聖性ではなく、日常に潜むやわらかな/小さな聖性であり、それをまなざす私たち自身の欲望なのです。
※私たちは創刊号で「空間/場所」というアーキテクチャ=下部構造に注目しました。さらに第2号で「聖なるもの」という上部構造に着目し、現代社会のあり方を分析しています。創刊号と第2号を合わせてお読みいただくと、両者の連続性を感じることができるのではないかと思います。
〇各論の紹介
以下が、今号の目次です。
〇巻頭言「やわらかな聖なるもの」(松田樹・森脇透青)
松田・森脇による、1万字を超える情熱的な巻頭言。巻頭言では『アーキテクチャの生態系』から『前田敦子はキリストを超えた』へと変移した濱野智史を例に挙げ、ゼロ年代批評=アーキテクチャ、10年代批評=「聖なるもの」という見立てを提起しています。
当時は奇妙なものに思われた、濱野の変遷は、その実、私たちの社会の変遷そのものではなかったのではないでしょうか?
「推し」、陰謀論、新宗教――「ハマ」らなければ大きな物語なきこの社会をサバイブできない。濱野がAKBを「サリンをまかないオウム」(『前田敦子はキリストを超えた』)と定義したのは、象徴的でした。オウム真理教はジャンクでしかなくとも、生きる意味を失った若者たちに「大きな物語」を提供し得たのです。人はパンのみで生きるわけではありません。どれほどジャンクでも、いわば安全なジャンクとしてAKBにハマれば生きていける、こう訴える濱野の態度変更は、ゼロ年代のアーキテクチャ論が下部構造だけを問題にし、どれほどジャンクでも「生きる意味」を求めてしまう人間の精神性を軽視してきたことへの反省の上に成り立っています。
アイドルへの熱狂にせよ、陰謀論への傾斜にせよ、新宗教にせよ、私たちは心のどこかで拠り所となる「聖なるもの」を求めてしまう。ケア、依存症、「聖なるもの」の時代。濱野が先駆していた通り――『前田敦子はキリストを超えた』が2011年刊行――アーキテクチャ論の反省から、むしろそれらを求めずにはいられない弱い主体を肯定することに反転したのが、ゼロ年代から10年代への転換だったのではないでしょうか。
その時、「聖なるもの」は、語源である「聖別された」(scared)が含意する崇高で私たちを抑圧する父権的な権力というよりも、私たちを甘やかし包摂する母的な権力として現れれます。こう言ってよければ、それは私たちを癒し包み込むケアの権力でもあります。「やわらかな聖なるもの」は、私たちを侵しあいまいなままに融和させ、そして政治的な対抗をなし崩しにする管理型の権力を名指すために、私たちが発明しようとする言葉なのです。
例えば、宇佐見りん『推し、燃ゆ』、あるいは陰謀論映画『マトリックス』(The Matrix=母体)。これらは、その「母」の権力を先駆的に描いていたからこそ、現代の私たちにとって刺激的な物語を提供していると言えるでしょう。あるいは、日本の言説空間がつねに抵抗の身振りを示してきた、天皇制。天皇も今や超越的な存在ではなく、私たちをゆるくリベラルに肯定する政治的なアイコンそのものです。現代社会を包み込む「やわらかな聖なるもの」とは何か。それへの抵抗という批評的な課題は、いまどのようにありうるでしょうか。巻頭言ではその道筋を指し示します。
〇第一部 聖なるものとパラノイア:松田樹「阿部和重の映画と陰謀」
戦後文学と文芸批評の関係について問い続ける松田が巻頭で論じるのは、「J文学」の旗手にして、映画評論家の顔をもつ阿部和重。
阿部が初期から繰り返し描くのは、陰謀論的な想像力をめぐらしていく映画青年の物語です。阿部は陰謀論に1990年代から注目し、物語に取り入れ続けています。
現在しばしば陰謀論者たちが用いる「レッド・ピル」という比喩が映画『マトリックス』からの引用であるように、陰謀論と映画は密接な関係性を取り結んでいます。
東浩紀のサイバースペース論なども視野に入れながら松田が論じるのは、映画と陰謀論に共通する「プロジェクション」(投影)という主題です。阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』から最新長編『オーガ(ニ)ズム』まで、阿部和重の作品に一貫した父的権力の弱体化による「プロジェクション」の病について論じます。
〇第一部 聖なるものとパラノイア:黒嵜想「見えない男」
音声論、南極論という特異な批評活動を続けている黒嵜が本稿で論じるのは、透明人間。
一方的に相手をまなざす力をもつ透明人間ですが、彼は透明化されることによって自己疎外をも経験します。透明人間という不可視化された男。彼はどのような「性」を生きるのか。「透明人間」を題材とした複数の映画を横断しつつ黒嵜が論じるのは、透明人間のセクシャリティです。
ここにあるのもやはり「見る」という投影の問題です。さらに、黒嵜は作品内容の分析にとどまらず、この問いを映画のメディア論的な問いへと拡張します。映画というメディウムと、透明人間とはいかなる関係にあるのか。モーションキャプチャとは、新しい透明人間の誕生ではなかったでしょうか。
透明人間・カメラ・鏡・モーションキャプチャ……さまざまなモチーフを通して響いてくる透明人間の「声」をお聞きください。
〇第二部 聖なるものと「政治と文学」:古木獠「国家・肉体・恥――試論」
国民投票や発案の研究を行っている古木は、今号で国家の主体性について論じています。
敗戦は、日本の国体・主権になにをもたらしたのでしょうか。数々の法学者の議論から古木が取り出すのは、国体という概念が神話的な言説に基礎づけられているにもかかわらず、なおかつ天皇という具体的な個人の肉体にそれが宿っているというねじれた事態です。
そうして古木の論考は、国家という肉体の探求に続いていく。唐十郎の「特権的肉体論」や加藤典洋の『敗戦後論』を参照しながら、古木は国家という肉体の「恥」や「痛み」、「汚れ」に立ち入っていきます。
〇第二部 聖なるものと「政治と文学」:石橋直樹「「死」が人間を喰らうとき――林桜園・神風連の乱・蓮田善明」
「〈残存〉の彼方へ」で第29回三田文學新人賞評論部門を受賞した批評家・石橋直樹。石橋は、「死」を否定した「単独者」たちの系譜を本号に寄せた論考で論じています。
国学者林桜園から受け継がれた、死を否定する「神の国」の倫理。それは近代における神風連の乱や日本浪曼派の思想にまで受け継がれていきます。
そして石橋によれば、三島由紀夫が神風連の乱を題材にしながらも、『奔馬』で書き得なかったのは、その「神の国」の論理に他なりません。そこに三島と蓮田善明の差異がありました。
死を否定したゾンビ的な革命集団の目指す先はどこか――。内容はもちろん、「人は神にもなりえる」と喝破する石橋の力強い文体をお楽しみください。
◯第二部 聖なるものと「政治と文学」:倉数茂「永遠のオルガスムへ上りつめること――三島由紀夫と大江健三郎の『セブンティーン』」
小説家・文芸批評家である倉数茂が論じるのは、三島由紀夫と大江健三郎という戦後日本を代表するふたりの作家です。倉数はふたりの作家を対蹠させながら、その政治論=天皇論について論じます。
エロスと暴力と政治。ふたりの作家が近しい話題をめぐって小説を執筆していたことは間違いありません。『憂国』において死とキッチュを結びつけた三島と、『セブンティーン』において天皇のエロス化を図った大江。両作家は戦後思想の中で、どのように切り結んだのでしょうか。
三島・大江の小説論・政治論の分析はもちろん興味深いものですが、本稿の魅力はフリードレンダーや田中純なども参照しつつドイツのナチズム研究を巧みに取り入れている点にあります。倉数による浩瀚な注もぜひ読み込んでいただきたい論考です。
◯第三部 聖なるものと「ポップカルチャー」:武久真士「やわらかな変態――詩的言語とコミュニティ」
近現代詩を専門とし、本号のディレクター(=責任者)でもある武久真士が論じるのは、「詩」と「政治」の問題です。
詩と切り離すことのできないレトリックの源流は弁論術、相手をいかに説得するかという技術にあります。これはもちろん、自分の支持者を作る政治的な運動と密接に関わっています。こうした説得の技術が共感のような情動的なレベルで機能したとき、ポピュリズムの契機が生まれます。
武久は現代短歌や最果タヒなどを共感的な詩的言語として論じつつ、異和を生み出す詩人として蜆シモーヌに注目し、詩的言語による詩的言語の内破の可能性を探求します。
◯第三部 聖なるものと「ポップカルチャー」:安永光希「モダン・ジャズの(カフカ的)自意識――分裂と追いかけっこ」
アメリカ哲学研究者の安永光希が本号に寄せたのは、ジャズ論かつカフカ論。安永は、一見つながりそうにない両者を即興=対話というモチーフから読み解いています。
ジャズミュージシャンが音楽に対してしばしば用いる「対話」というレトリックは、議論による説得という形であっさりと上位者による包摂を含意してしまいます。カフカが描いたのも、対話によって強いられる、上位者に対する解釈労働でした。
では、このマゾヒスティックな対話のありように耽溺してみるのはどうか―ー。安永は、セロニアス・モンクなどを論じながら、インプロヴィゼーションという対話に巻き込まれることの快楽を描きます。
〇第三部 聖なるものと「ポップカルチャー」:森脇透青「Hello goodbye 平沢進――「母」の変容」
デリダ研究者でもあり批評家でもある森脇透青。本号では平沢進について論じています。森脇は、近年陰謀論者的な傾向を見せる平沢の楽曲を、「母」という観点から検討します。
本稿では、ユングの存在が大きな鍵を握っています。集合的無意識という次元で個々人の差異を溶解させていくグレートマザー的なユングの思想は、70・80年代の日本において重要な想像力の源となってきました。さらに森脇は平沢の「母」概念の変遷を追う中で、それが90年代からゼロ年代にかけての情報環境論と共振するものであったことを指摘します。
インターネットの発達によって、人類は垣根を越えて一体となれる――ここにもやはり、ユング的な想像力が潜んでいるのです。
森脇は平沢のユング的感性に注目するだけでなく、日本の批評史の一面をも、ユングとの距離感から素描していきます。平沢進論、「母」論、批評論、さまざまな関心からお楽しみいただける論考です。
◯松本卓也・山本圭「「否!」なき時代に――松本卓也・山本圭クロスインタビュー」(聞き手:武久真士・松田樹・森脇透青)
精神病理学を専門とし、ラカンに関する著書も多数ある松本卓也と、政治思想史を専門としラクラウやムフについて論じてきた山本圭。『〈つながり〉の現代思想』などでもタッグを組んでいるおふたりに、座談会形式でインタビューを行いました。
2万字以上にわたるこのインタビューで取り上げられている話題は多岐にわたりますが、中心はタイトルにもある「否定性」の原理です。ケア論や「つながり」論などはいかにして包摂を行うかという議論に収斂しがちですが、「否!」なき社会には批評的な反省や立ち止まりもありません。この「肯定社会」に、どのようにして「否!」をさしはさんでいくことができるでしょうか。
おふたりの著書の内容を深堀りするだけでなく、これからの展開をも照らし出すようなインタビューとなっています。
〇草乃羊・武久真士・古木獠・松田樹・森脇透青・安永光希「「聖なるもの」をめぐって」
創刊号と同じく、本号でも特集テーマをめぐる同人メンバーの座談会を収録しています。読書会で取り上げたさまざまな書籍の話から、各人の「聖なるもの」に対する関心が見えてきます。
巻頭言とこの座談会を読んでから各論考をお読みいただくと、よりそれぞれの議論がわかりやすいかもしれません。
また、本号には創作・コラム欄も多数設けています(千賀健史・中﨑クルス・太田光海・櫻井天井火・素潜り旬・戸村こたつ)。こちらには「聖なるもの」にかかわって創作や評論活動を行なっている同人外の方々から寄稿をいただきました。
座談会のあとには、読書会であつかった18冊の書籍に関する解説も掲載。「聖なるもの」をめぐる、ブックリストとしてご活用ください。
〇販売・イベント
以上が、『近代体操』第2号のコンテンツです。全245ページ、創刊号より70ページも多いボリューミーな雑誌となりました。しかし、お値段は据え置き2000円です。
冒頭で述べたように、第2号は2024年12月1日に開催される文学フリマ東京39にて刊行いたします。2025年1月19日の文学フリマ京都9、2025年5月11日の文学フリマ東京40などにも出店予定です。
また、各種書店やBOOTHなどでも販売を予定しておりますので、文学フリマに行けないという方はそちらでの購入もご検討ください。くわしい販路は、近代体操のHPからどうぞ。
なお、文学フリマやBOOTH等にて創刊号も継続して販売しています。まだ創刊号をお持ちでないという方は、ぜひそちらもお買い求めください。
※創刊号と第2号はそれぞれ独立しておりますので、第2号だけ読んでもお楽しみいただけます。
第2号刊行後は刊行記念イベントも予定しています。またnoteやTwitterなどでお知らせしますので、お楽しみに。
ではみなさま、『近代体操』第2号をよろしくお願いします。