見出し画像

『近代体操』創刊号 内容紹介まとめ&告知(文学フリマ東京36)

私たち批評のための運動体「近代体操」は、一冊の雑誌をつくるにあたって大ざっぱなテーマを決め、そのテーマに関する定期読書会や不定期のイベントを一年間行ってから特集テーマを明確化し、雑誌制作に取りかかる、という手順をとっています。
この取り組み全体を「セッション」と呼び、「セッション」を通じて、書き手の間で問題の所在についてのコンセンサスが得られ、そのうえで各自の問題意識からのアプローチが可能となります。また、この方針によって、雑誌制作のみならず、その過程や事後的なイベントも含めてひとつの「批評的実践」とみなすことができるようになるでしょう。

「セッションⅠ」では、「空間/場所」をテーマに設定し、一年間(2021年6月~2022年6月)の読書会を行ってきました。読書会には近代体操メンバー以外にも30人程度の参加者が揃いました。この「セッションⅠ」の総括として、雑誌『近代体操』の創刊号は刊行されました。

『近代体操』創刊号・表紙
『近代体操』創刊号・書影
『近代体操』創刊号・目次

『近代体操』創刊号内容紹介①
【巻頭言】左藤青+松田樹「都市の陰鬱を超えて——いま場所の批評はどこにあるのか」

コロナ禍、「メタバース」流行、東京オリンピック、オンライン会議の普及、戦争、元首相殺害…この数年の世界の動向は、私たちの住む「空間」や「場所」そのものの著しい変化としてとらえられるでしょう。そこで私たちはあえて問います。

「いま、なぜ空間は退屈か?」

『近代体操』創刊号では、そのような空間そのものを主題としています。「近代体操」発起人の左藤青と松田樹による巻頭言では、マーク・フィッシャーの批評ならびにローラ・オールドフィード・フォードのドローイングを出発点として、空間そのものを語るための条件を探ります。

Laura Lldfield, M6 Junction9, Bescot, 2011

とりわけ本書で着目するのは、都市を支える不可視のインフラーー「バックヤード」ーーです。食料や衣類といった日用品から果ては電力(原発によって賄われる)まで、都市生活は「外部」に依存していますが、その外部性や流通経路は多くの場合隠匿されており、消費者はそれを意識することがありません。

左藤+松田が要請する「あえて全体を語ろうとする〈野蛮〉」としての批評は、不可視の機構を探りあて、生活の条件への思考をはじめることを意味します。 そのとき、たんなる抽象的思弁でも具体的なケーススタディでもない「普遍性」の陽光が垣間見えるでしょう。

創刊号のテーゼとなる巻頭言です。

巻頭言①
巻頭言②


『近代体操』創刊号内容紹介②
【特別インタビュー】藤村龍至(聞き手:左藤青、松田樹、古木獠)「郊外をアップデートせよ!」

「批判的工学主義」を掲げる建築家・藤村龍至は、「アーキテクト」を自認し、工学主義(建築は場所の条件や要請から自動的に建つ)と反工学主義(建築家のオリジナリティを重視)を調停する新たな建築の在り方をゼロ年代以来、模索してきました。

藤村龍至氏

「福島第一原発観光地化計画」における東浩紀との協働で知られる通り、藤村氏は人文系のシーンとたえず協働・並走してきた貴重な現代建築家のひとりです。
創刊号冒頭を飾るロング・インタビューでは、現在の「空間」をめぐって藤村氏と対話し、創刊号の具体的な射程を明らかにします。

『福島第一原発観光地化計画』

藤村氏はゼロ年代より、東京オリンピックが新たな時代の切断点となると予言してきました。しかし実際のオリンピックは計画の時点からさまざまな問題を含み、パンデミックのなか強行される形となりました。 いま、藤村氏の眼に、都市はどのように映るのでしょうか。率直な問いをぶつけます。

インタビューのなかでは、「批判的工学主義」の次の局面、藤村氏の心境の変化など、なかなか他では見られない、リアルタイムのお話も伺うことができました。
現代を代表する建築家にとって建築の未来、都市空間の未来はどう見えているのか。必読のインタビューです。

藤村龍至 特別インタビュー①
藤村龍至 特別インタビュー②
藤村龍至 特別インタビュー③
藤村龍至 特別インタビュー④


『近代体操』創刊号内容紹介③
松田樹「村上春樹の「移動」と「風景」」

いわゆるポストモダン期の日本文学を代表する作家・村上春樹。 その作品は、ファミレス、ホテル、高速道路、空港といった「移動のための匿名的な場所」(マルク・オジェ)を舞台に展開されています。

村上春樹『ノルウェイの森』
村上春樹『アンダーグラウンド』

事実、柄谷行人以降、村上春樹を論じてきた日本の批評家たち(浅田彰、加藤典洋、福田和也、東浩紀……)は、否定にするにせよ肯定するにせよ、共通して春樹作品に見られる「風景」の貧しさを論じ、村上春樹を「同時代日本の退屈な風景」を表象した作家とみなしてきました。

柄谷行人『終焉をめぐって』
加藤典洋『日本風景論』

文学研究者・松田樹は、村上春樹の描く「移動」と「風景」に注目しつつ、春樹をめぐる40年間の言説空間を可視化します。 松田によれば、春樹作品と文芸批評は、「ファスト風土化」とも呼ばれる、1980年代以降の地方の郊外化と並走するものであり、共通の磁場のなかで展開されているのです。

創刊号 第一部「空間をいかに表象するか——風景の問題」の冒頭を飾る松田の春樹論。 文芸批評の歴史を解きほぐすとともに春樹文学における空間体験の表象を考察し、そこからこぼれ落ちる「地下の暴力」を抉出する労作「村上春樹の「移動」と「風景」」です。

第一部「空間をいかに表象するか——風景の問題」
松田論考


『近代体操』創刊号内容紹介④
左藤青「地図の敷居をまたいで、——ルイジ・ギッリの「フォトグラフ」」

「風景の表象」で私たちの日常に最も身近なものは風景写真でしょう。私たちは写真を通じて世界を切り取り、ひとつの断片として表象します。 事実、写真はその誕生以来、変動しつつある街並み、あるいは一瞬の出来事の証言として用いられてきました。

他方、現代において写真は、決して単なる芸術ではありません。 街のいたるところに配置され、スマホに埋め込まれたカメラは個人を特定し識別する管理の技術であり、写真はその一部を成すものなのです。この新たな写真のあり方を、港千尋は「インフラグラム」、大山顕は「写真3.0」と呼んでいます。

港千尋『インフラグラム』
大山顕『新写真論』

しかし、写真イメージが人物や出来事の「事実」の証言になるしても、それは「現実」を反映しているのでしょうか。それともその逆に、操作され歪曲された人工物にすぎないのでしょうか。
左藤青はイタリアの写真家ルイジ・ギッリの写真に、リアリズムも観念論も超えた、写真の新たな次元を見出します。

ルイジ・ギッリ『写真講義』

左藤は中平卓馬を批判的に参照しギッリの写真を「「手」と「もの」の遭遇」と解釈しますが、この遭遇はギッリに限られたものではありません。 メルカトルやフェルメールにまで遡ることのできる「手」の系譜「地図的」想像力の系譜とは何でしょうか。左藤青の論考「地図の敷居をまたいで、」です。

左藤論考①
左藤論考②
左藤論考③
左藤論考④


『近代体操』創刊号内容紹介⑤
武久真士「凹凸の地図をつくる——夜好性・米津玄師・「猫町」——」

グローバリズムによる風景の均一化は、すでに数多くの論者によって論じられ批判されてきました。 一方、そのような都市をむしろ美化し、享楽する方向が現代日本の文化に数多く見出されます。新海誠における都市描写や、「夜好性」アーティストの歌詞はその一例です。

詩人・萩原朔太郎は、詩の失われた時代においては、流行歌こそが「民衆のリアルな喜怒哀楽を表現」しているとみなしました。
文学研究者の武久真士はこの前提に基づきながら、現代の「流行歌」における「夜の街」の描写を検討し、萩原自身の数少ない小説作品『猫街』の幻想的な街並みと比較します。

萩原朔太郎

武久は現代シティポップ(「夜好性アーティスト」たち)のテーマを「夜のセカイ系」と形容します。 彼らが賛美する、現実から逃避した聖地としての「夜の街」。武久はそれとは異なる歪んだ街の情景、異なる「脱出」の可能性を萩原『猫街』の都市描写のうちに、さらに米津玄師の歌詞に見出すのです。

萩原朔太郎『猫町』
米津玄師『diorama』

平凡な街並みの日常。その均質化が進むにつれて、退屈な「日常」からの逃走・脱出への希求も増大していきます。
創刊号 第二部「空間に外部はあるか——現代文化における脱出の夢」では、そうした脱出の「夢」を検討し、その外部の可能性と不可能性を問い直します。 冒頭を飾る論考、武久真士「凹凸の地図をつくる」です。

第二部「空間に外部はあるか——現代文化における脱出の夢」
武久論考①
武久論考②


『近代体操』創刊号内容紹介⑥
草乃羊「来るべきメタバースのために——ユートピアの在りかについての再考——」

「空間」というテーマを現代論じるにあたって欠かせないのは「バーチャル空間」でしょう。 コロナ禍のなか、バズワードとなった「メタバース」とは一体何でしょうか?
その思考の試みを『近代体操』創刊号でも行なっています。執筆者は草乃羊です。

草乃はメタバースの虚構的な空間私たちがいる「ここ」の現実から別の秩序への究極の脱出として理解し、あくまで現実から陸続きのものとみなします。 トマス・モアのユートピアにまで遡るこうした外部への夢の投影は、身近な例では都会から郊外の夢の国への「脱出」とも似たところがあります。

こうした脱出の試みの戦後における代表例は、60年代のカウンターカルチャー運動です。消費社会から脱出しようとしたこの運動は、LSDに頼りつつ"Turn on, tune in, drop out"の標語を掲げます。 同じく西海岸で芽生えたITカルチャーは、これと並走し、現在のインターネット文化を生み出しました。

草乃は東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』を参照しつつ、P・K・ディック『ヴァリス』ハクスリー『知覚の扉』を取り上げつつ、「外部」という隠喩の問題を論じます。 草乃によれば、こちらとあちら、内部と外部のような空間的認識の枠組み自体が解体される必要があるのです。

東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』
P・K・ディック『ヴァリス』
オルダス・ハクスリー『知覚の扉』

草乃によれば、外部とは「ここからの脱出」ではなく、むしろ「ここ」にこそ見られるべき「別の秩序」の可能性です。そのとき、メタバースは単に脱出の欲望を反復するにすぎないのでしょうか。それとも「別の秩序」を作り出す試みたりうるのでしょうか。草乃羊「来るべきメタバースのために」です。

草乃論考①
草乃論考②
草乃論考③


『近代体操』創刊号内容紹介⑦
古木獠「悪場所の経験、あるいは<現実>の演劇的侵犯」

創刊号 第三部「空間は組み変わるか——身体を上演する」をテーマとしています。
定住生活民から排除されていた制外者集団が、定住民と交流できた場所を、近世文学研究者の廣末保「悪場所」と呼んでいます。芝居や遊郭に代表される、この「悪場所」では、定住者の秩序が侵犯されていたといいます。

今、私たちが暮らしている場所の秩序を変革することを考えたとき、その原動力はまず抑圧への抵抗でしょう。
しかし、家や国家という共同体での安心した生活には「外部」を抑圧する境界線が必要とされます。この境界線に不可視化された抑圧を上演するのが「悪場所」なのです。

廣末が注目した悪場所は、現代の都市空間にはもはや見出せません。今では悪場所をつくり出さなければなりませんが、そのような試みとして古木が再考するのが「観光地化」(東浩紀)です。
この悪場所的な「観光地」は、抑圧されたものへと想像力を働かせる装置——文学や演劇——を必要とします。

『福島第一原発観光地化計画』
『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』

この想像力を働かせる装置について、古木は大江健三郎の連合赤軍をモデルにした二つの作品(『河馬に噛まれる』と『革命女性(レヴォリューショナリ・ウーマン)』)を手がかりにして考察しています。特に戯曲・シナリオ草稿として書かれた『革命女性』から<現実>の演劇的侵犯の可能性を論じています。古木獠の論考「悪場所の経験、あるいは<現実>の演劇的侵犯」です。

第三部「空間は組み変わるか——身体を上演する」
古木論考


『近代体操』創刊号内容紹介⑧
安永光希「舞踏の空間——多義的な身体のために——」

踊りという営みは、私たちの身体と空間の関わりあいを示してきました。
踊りは、古くから共同体において中心的な役割を担い、人々の紐帯として機能しています。現代も、クラブのフロアからtik tokの投稿まで、至るところに踊りはあります。

安永の論考の中で取り上げられるのは、「舞踏(暗黒舞踏)」という踊りです。この世に存する様々な踊りの中で、舞踏はとくに、身体と空間の関わりあいに繊細であると言えます。明確な型を持たず、即興で踊られる舞踏が、世界中で受容されてきたのは、この繊細さゆえでしょう。

この繊細さとは、思考の繊細さに他なりません。舞踏は神秘的な営みではなく、極めて理性的に踊られます。例えば、石の「ように」踊るのではなく、石に「なる」こと。そのために、土方巽は石を観察することを要求していました。石として存在するとはいかなることか、思考し続けながら踊りは踊られます。

かくのごとき思考が共有されることで、舞踏家の共同体は形作られます。その共同体では、一つの言葉に対して様々な身体の意味が生み出され、身体の多義性が確保されることになります。安永光希の論考「舞踏の空間——多義的な身体のために」です。

安永論考①
安永論考②


『近代体操』創刊号内容紹介⑨
【巻末座談会】「近代体操」同人(松田樹・左藤青・草乃羊・古木獠・安永光希)「「空間/場所」をめぐって」

「近代体操」メンバーで「セッションⅠ」、「空間/場所読書会」を振り返る座談会を行った。最初に「空間/場所」という大きなテーマを決め、一年間の読書会を通じて問題の所在を明確化していった。本座談会では、「空間/場所」というテーマ設定の動機から、読書会を積み重ねるなかでどのように思考を進めてきたかについて、時事問題や現在の空間/場所の問題などに触れつつ話し合いました。

身近な問題を多く取り上げながら、本誌のテーマや問題意識について話しているので、とても分かりやすく読みやすい内容になっています。本誌および「近代体操」の活動を含めた全体を包括する内容であり、巻末にふさわしいものともいえますが、この座談会から読み始めても、本誌全体の問題意識や状況認識がわかり、よい導入になるでしょう。

巻末座談会


『近代体操』創刊号・コラムと執筆者紹介

『近代体操』創刊号には、近代体操メンバーのほかにも多くの執筆者にご寄稿いただきました。特に論考以外のコラムをご寄稿いただき掲載しています。以下に執筆者およびタイトルをご紹介します(敬称略)。

麗日 「撮影後記」
重永瞬 「歴史-地理はレイヤではない」
韻踏み夫 「近代都市の掃き溜めから」
Rmbd 「場のものがたり」
懶い 「負債の語り——トニ・モリスン『ビラヴド』をめぐって」
矢田冨士子 「見えない空間としての福島——「原発」都民投票に関わって」

執筆者の方々には限られた紙幅の中で凝縮された文章をいただきました。
ぜひ本誌を手に取ってお読みいただければと思います。

『近代体操』創刊号・執筆者紹介


告知

05/21(日)文学フリマ東京 出店

2023年05月21日(日)12:00~17:00に東京流通センター第一展示場+第二展示場Fホールで開催される文学フリマ東京36に、私たち「近代体操」も出店します。ここで『近代体操』創刊号をはじめて販売します。
出店ブースは第二展示場の【お-56】です。

文学フリマ東京36(2023/05/21)
会場配置図 第二展示場【お-56】

また今回、文フリ会場では、フリーペーパー『近代体操通信』を無料配布する予定です。すでに創刊号をお持ちの方も、よろしければお越しください!

ぜひ『近代体操』創刊号を手に取ってお読みください!


近代体操セッションⅡ「聖なるもの」読書会

今年2023年2月から新たに近代体操「セッションⅡ」として「聖なるもの」をテーマに読書会を開始しました。このテーマについては下記の記事をご覧ください。

読書会はすでに4回開催しており、大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』、宇佐美りん『推し、燃ゆ』、デュルケーム『宗教生活の原初形態』、タラル・アサド『世俗の形成』、モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』、デリダ『信と知』、折口信夫、吉本隆明『初期歌謡論』を扱いました。第3回までのレポート記事がアップされています。

テーマは継続していきますが、各回は独立ですので、いつでもお気軽にご参加ください!参加はnoteのメンバーシップからお願いします(登録されると、読書会のdiscordに招待されます)!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?