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【第1回】聖性論読書会レポート:大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』、宇佐見りん『推し、燃ゆ』

2月18日から『近代体操』第2号に向けた読書会がスタートした。テーマは「聖なるもの」。読書会に関する詳しいことは下の記事を見ていただきたい。本記事は、第1回読書会の模様を伝えるレポートである。

第1回読書会では「天皇」および「推し」の問題に関わる、次の2冊が課題図書となった。

◯大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』
(レジュメ担当:武久真士)

サブカルチャー批評や物語論、大学論など多岐にわたる活躍を見せる大塚英志の、独特の天皇論集。昭和天皇を「かわいい」と感じる少女たちの心性を分析しながら、天皇制をめぐるナショナリズムの問題などにも目を向ける一冊。

題名にもなっている評論「少女たちの「かわいい」天皇」では、少女たちが天皇に向けるシンパシーが論じられている。天皇を「かわいい」と見る、従来の右翼/左翼的な言説ではあり得ない感性。それは、天皇に「無垢さ」や「弱さ」を見出し、自分たち自身の「無垢さ」「弱さ」と重ね合わせる視線であった。

少女たちの目に一瞬、映ったのはかくも孤独な忘れられた聖老人の姿だった。それは究極の資本主義社会の中にあって自らの周りを〈かわいいもの〉で遮断しなければ崩れてしまう少女たち自身の孤独な姿ともひどく似ていた。聖老人は少女たちのかくも切ない〈無垢〉と〈孤独〉を象徴している。

(本文28ページ)

本評論中で大塚は、こうした少女たちにとっての「かわいい」天皇を肯定も否定もせず一定の距離を保って分析している。ただしこのように「私」と「天皇」とを、「かわいい」を媒介として一気に結びつけてしまうセカイ系的な天皇観は、のちの大塚によってはっきりと否定されるようになる。

大塚には、本書と同じような問題意識で書かれている『感情天皇論』という著作が存在し、そこではこうしたセカイ系的天皇観が批判されている。その場その場の感情によって超越的なものと結びつき主体の責任から逃れてしまうこと。大塚が問題視するのは、共感というなれあいによって確たる「私」が立ち上げられないまま、「なんとなく」日々を過ごしてしまうことである。

大塚の評論は常に、「どのようにして戦後民主主義を成立/維持できる主体を立ち上げるか」という問題意識をめぐって展開されている。大塚によれば「かわいい」天皇もまた、社会を担う「私」の自立を妨げる悪しき感性に他ならないのである。

ただし大塚は、そうした天皇制に立ち向かうことの難しさも同時に指摘している。日本において天皇は家父長制の頂点=「父」として存在すると同時に、個人を包摂し「私」を融解させてしまう「母」としても機能してきた。抑圧的に働く「父」は「父殺し」によって乗り越えられるが、こちらを包み込んでくる「母」に対抗することは難しい。では、この「母性のディストピア」(宇野常寛)を克服するためにはどのようにすればいいのだろうか。今後も読書会を重ねながら考えていきたい。

◯宇佐見りん『推し、燃ゆ』(レジュメ担当:松田樹)

宇佐見りんは2020年、若くして芥川賞を受賞し文芸誌の話題をさらった。いま話題の「推し」現象をモチーフとしてうまく落とし込みつつ、思春期の屈託を細緻に描いた本作の筆力は、若手の作家としては特筆に値するものだろう。

レジュメ担当・松田によるあらすじを引こう。

主人公の高校生・あかりは、アイドルグループ「まざま座」に籍を置く上野真幸を熱心に「推し」ている。家庭では姉に劣等感を抱き、高校生活にうまくなじめず、バイトも失敗続きの日々のなかで、彼を推すことだけを生き甲斐にしている。だが、上野はファンを殴ったとして、「炎上」する。批判の渦中で行われた人気投票にあかりは全力も尽くすも、彼は最下位に転落する。それによって、より「推し活」にのめり込んでいくあかりは、高校も中退し、バイトもやめることになる。最終的に、「まざま座」の解散と上野の芸能活動引退を知り、あかりは呆然自失となる。

こうしてあらすじだけ見ると「推し」「炎上」など今風のワードが並ぶ本作だが、細かい部分には「水」や「肉体」についての描写が散りばめられており、そうしたモチーフの扱い方のうまさが作品としての強度を担保していると言える。また主人公による「推し」活動は宗教活動的な側面を見せており、いわゆる「推し」文化と本読書会のテーマのひとつである宗教論とのつながりを示してもいる。

本作に関しては、宇佐見りん自身が中上健次への親炙を語っていることから、一時期ぷち中上復興のようなものが起こったこともあった。しかし松田は、そうした中上―宇佐美という作家に引かれたラインから身を引き離そうとする。代わりに松田が見るのは、語り手と「推し」との微妙な距離感だ。

かつて江藤淳は、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』における「、」に、「なんとなく」あることに対する田中の批評性を見出した。ならば、『推し、燃ゆ』の「、」も、そうした批評意識の現れと言えるのではないだろうか。

発表中松田が何度か強調したように、「推し」や中上といった眼を惹くワードに惑わされ、作家の引いたライン通りに作品を読まされていては凡庸な読みしか成り立たない。どのように作家との間に「、」を挿入していけるのか。そこが読み手の腕の見せ所なのだ。

◯ディスカッション

当日は近代体操同人を除いても20人ほどの方に参加していただいた。発表部分は22:00前には終わり、そこから0:30ごろまで続けたので、2時間半ほどディスカッションしていたことになる。

議論の内容は多岐に渡り書きつくすことはできないが、ここでは何度か話題になったテーマについてふれておきたい。

それは、宗教における個別性と集団性についてである。あるいは宗教と共同体の問題と言ってもいいかもしれない。「推し」文化に見られる推す(推薦する)=布教するという図式の集団性と対照的な、『推し、燃ゆ』の「私」の姿が話題となった。

本作の「私」はブログ記事の執筆やSNSでのつぶやきは行うが、その活動は主に内側に閉じたものである。事実、「推し」が炎上し人気投票での順位が下落したあと「私」はブログの更新などをストップし、ひたすら「推す」ことに専念する。つまり彼女は「推し」という言葉が本来担っているはずの集団性から逸れて、孤独な修行者のごとき生活に入っていくのだ。
(修行者というのは比喩ではなく、自らの肉体を痛めつけながら「推し」だけを崇める彼女の生活は修行者と呼ぶにふさわしいものだし、作品後半では親元を離れ彼女だけの家を手に入れる、つまり一種の出家をも行うのである)

現代の消費文化はSNSでの共有を前提としている。だからこそ他人に推薦することを本質とする「推し」活動は現代的な消費の形態なのだと言えるのだが、では『推し、燃ゆ』の「私」によって行われる孤独な「推し」活動とはなんなのか。

こうした集団的な消費と孤独な消費について考えることは、宗教における集団性と個別性について考えるためのヒントを与えてくれるし、ディスカッションで何度か話題になった「推し」活動と宗教活動との重なりとずれを教えてくれる。

今回は初回ゆえいくつかの問題を提起して読書会は終わったが、次回以降本格的に宗教における超越性や世俗性について議論していくこととなるだろう。次回読書会は3月18日の20:00~、テキストはタラル・アサド『世俗の形成』およびデュルケーム『宗教生活の基本形態』である。下記の記事に読書会の案内があるので、よければご参加ください。

(文:近代体操同人、武久真士)



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