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【第3回】聖性論読書会レポート:モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』、ジャック・デリダ『信と知』

 昨年11月に『近代体操』創刊号「いま、なぜ空間は退屈か」を刊行し、今年2月から新たに第2号に向けて「聖なるもの」をテーマとしたセッションⅡに取りかかり、「聖なるもの」をめぐっての読書会も開始しました。

 本読書会の概要については下の記事を参照ください。

 また、創刊号についてはこちらを参照ください。5月21日(日)の文学フリマ東京に出店するので、ぜひ足を運んでみてください。出店ブースは、東京流通センター第二展示場の【お-56】です。

 本記事は、古木獠による第3回読書会(23.04.15)の模様を伝えるレポートである。「宗教」と「知」の関係を問題とするべく、モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』とジャック・デリダ『信と知』の2冊を課題図書とした。

○モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』(レジュメ担当:草乃羊)

 落合陽一が本書は「『魔法の世紀』と『デジタルネイチャー』を僕に書かせた」と帯文を寄せているように、彼が頻繁に使用する「魔法の世紀」や「魔法」という言葉は、バーマンの本書——「世界の再魔術化」——へのオマージュである。
 生成AIの発展など、もはや「魔法」のような人間の理解やコントロールを超えた技術が、社会ないし人々のコミュニケーションの基盤となりつつある現在、世界の再魔術化はアクチュアリティを増しているテーマだろう。

「【落合陽一】なぜ、僕は21世紀を「魔法の世紀」と呼ぶのか」NEWSPICKS(2016)

 バーマンの論旨は非常にわかりやすい。近代以前から近代への過程で脱魔術化が起こり、現代の脱近代の過程では再魔術化が必要となる、というものだ。フランシス・ベーコンやルネ・デカルトに代表される近代科学的思考方法は、自然を客体化し、抽象的・量的に理解し、近代以前の自己と世界の結びつきを引き裂いたのである。
 このような自己と世界との結びつきを欠いた近代的世界観は、世界を科学的に分析・測定することはできるが、「意味」を喪失してしまっている。世界の法則がどうなっているかがわかっていたとしても、そこで自分が何をすべきかはわからない。それに対して、近代以前の人々は意味の体系に参与していたのだとバーマンはいう。主客未分の世界の中で、自己と他者の果てしない連関の中で、自己は最初から「役割」と「意味」をもつ。ここでは自己と自然ないし世界とは切り離せない。それゆえ、近代的世界観はバーマンにとって分裂病的と診断されるのである。

 近代的社会の病理を再魔術化によって克服しようというのがバーマンであるが、それはすなわち自然ないし世界と再び関係を取り結ぶということである。こうした図式は今やすでに聞き飽きたものになりつつあるほど、ある種常識化している。ディスカッションでは、本書のそうした方向性を確認した上で、バーマンの前提とする全体論的世界観、没入というコンセプトの危険性などが指摘された。


○ジャック・デリダ『信と知』(レジュメ担当:森脇透青)

 わかりやすかったバーマン『デカルトからベイトソンへ』に対して、デリダの本書は、アフォリズム形式でそれぞれの断章のつながりがわからず読みにくいテキストであった。本書は「イタリック」と「ポスト・スプリクトゥム」の二部から成っているが、前者は、1994 年にカプリ島で⾏われた討論会(デリダ、ヴァッティモ、ガダマー、フェラリス、ガルガニなどが参加)での報告が元になっている。ここに大まかな綱領が示されており、発表でもこの部分が中心的に扱われた。

 まずデリダは、「「宗教」を考えること、それは「ローマ的なもの」を考えることである」といい、「世界ラテン化(=グローバリゼーション)」と「原理主義」との間で、そのどちらでもなく、いかに宗教を語るかを問題としている。それは宗教に還元されない「信」を救い出すという試みである。そうした観点から、これまで哲学者たちが宗教というものをどのように論じてきたのかを、カント、ヘーゲル、ハイデガーを通して考察している。それぞれの考察の詳細には本レポートでは立ち入らず、ここではバーマンのテキストとも関連する重要な部分に触れるにとどめたい。

 近代科学的な説明・記述から世界への参加というバーマンの図式は、知には還元しえない、信へのパフォーマティヴな呼びかけを重視するデリダに通じるところがあるように思われる。デリダは、バンヴェニストの調査に依拠しつつ、宗教(religion)という語の語源から宗教に先立つものを取り出そうと試みている。
 語源について諸説あるが、バンヴェニストはキケロの⽅を有⼒な説としながらreligio の意味を「思い⽌まらせる躊躇や⾃制させる不安」としており、それをデリダは援用し、あらゆる歴史上のreligionにも先⽴つreligio(ためらい)とrelegere(集中する、熟慮する)を、あらゆる宗教的共同体に先⽴つきわめて「抽象的な」——砂漠的な——「絆」の条件と考える。それはあまりに抽象的であるので、何も啓⽰することがない。

religio とrelegere は、「絆」の条件として、その最⼩限の意味論的規定に還元されるだろう。すなわち細⼼なためらい(religio)という休⽌、遠慮による⾃制であり、ハイデガーが『哲学への寄与論考』で語っている⼀種のVerhaltenheitであり、敬意であり、決断あるいは肯定(re-legere)という担保において、反復に責任をとることである。この責任は、他者にみずからを結びつけるために、おのれを⾃⼰⾃⾝に結びつけ、拘束する。仮にそれが社会的紐帯とか他者⼀般への絆と呼ばれるにしても、信託に基づくこうした「絆」はどんな特定の共同性にも、実定宗教にも、存在論−⼈間学−神学的な地平にも先⽴つものである。

デリダ『信と知』

 どんな共同体であっても、その共同性に先立って自己と他者を関係づけ結ぶ決断あるいは呼びかけがある。こうした『法の力』にも通ずる発想では、法、特に憲法の基礎づけは記述的に説明されず行為遂行の働きによって説明される。そこでは客観的・抽象的な基礎づけは存在せず、具体的な政治があるのみである。こうして、デリダのいわば宗教なき「信」は、宗教に限らず法や資本主義(「信用(クレジット)」)などまで議論の射程を拡げている。


 次回読書会は、5月13日(土)20:00〜です。特別ゲストとして、折口信夫を専門としていらっしゃる石橋直樹さん(三田文學新人賞受賞作「〈残存〉の彼方へー折口信夫の『あたゐずむ』からー」が『三田文學』2023年春季号に掲載されています)にお話いただく予定です。近代体操メンバーからは武久が「ポエジー」の要素を考えるために吉本隆明を扱います。奮ってご参加ください。
 主として以下のテキストを扱う予定です。
・折口信夫「大嘗祭の本義」https://aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html…
・折口信夫「水の女」https://aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html…
折口信夫「神道に現れた民族論理」https://aozora.gr.jp/cards/000933/files/18410_27479.html…
吉本隆明『初期歌謡論』https://amzn.asia/d/aCNkNxZ


(文:近代体操同人、古木獠)

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