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【第2回】聖性論読書会レポート:デュルケーム『宗教生活の原初形態』、アサド『世俗の形成』

 『近代体操』第2号では、天皇をめぐる宗教性および信仰の問題推しをめぐる現代消費文化の問題言語におけるポエジーの問題、これらを横断的に「聖なるもの」という概念で取り扱う。
 
 この「聖なるもの」というテーマの下で、2月18日から『近代体操』第2号に向けた読書会がスタートした。読書会の概要については、下記を参照。

  本記事は、松田樹による、第2回読書会(23.3.18)の模様を伝えるレポートである。
  第2回読書会では、今後の議論の土台として、「宗教」概念の諸相を抑えるべく、次の2冊を課題図書とした。

◯エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』
(レジュメ担当:安永光希)


 デュルケームの著作の数々は、ウェーバーと双璧をなす社会学の古典として知られる。今回は、読書会を進めてゆく上で、「宗教とは何か」という問題について、参加者の間で共通して参照できる枠組みを作っておくため、デュルケームの宗教論を課題図書に設定した。

 デュルケームの社会学は、自然科学のアプローチを用いて、「社会」というこの融通無碍な存在を客観的に捉えようとしたところに特徴づけられると言われる。すなわち、「社会的事実を「物」(choses)のように考察すること」(デュルケーム『社会学的方法の基準』)こそが、彼の学問のコンセプトなのである。

 とすれば、問題となるのは、人々をつなぎ合わせ、あるいは分断する「宗教」という、この謎めいた「力」――この言葉が『宗教生活の原初形態』に頻出すること、そしてそれがキーワードであることが安永による発表の重点であった――の実在性に他ならない。近代社会にも「宗教」は陰に陽に回帰しており、我々の社会生活を背後から規定している。『社会学的方法の基準』(1893)や『自殺論』(1897)などで自身の社会学の方法的基盤を構築したのち、デュルケームは『宗教生活の原初形態』(1912)で、この「宗教」の問題に取り組んでいくことになる。

『宗教生活の原初形態』はオーストラリアのトーテム信仰を分析している

 『宗教生活の原初形態』にてデュルケームが対象としたのは、オーストラリアのトーテミスムである。進化論的な発想の下に、オーストラリアの未開社会では西欧における「宗教」の「原初形態」が反映されていると考えられたためである。

 トーテム信仰においては、動物種や植物種を象った独自のトーテムを持つことで、社会が「氏族を基底とする組織」(organisation a base de clans)として分割されている。デュルケームが注目するのは、社会を運営してゆく背景にこのように「宗教」という「力」が強力に作動している、そのメカニズムに他ならない。

 トーテミスムは、なにがしかの動物や何がしかの人間、なにがしかの具象の宗教であるのではなく、一種の無名で非人格的な力の宗教なのであって、この力は、これらの存在の各々のなかに見出されるのだが、しかしながらそれらの存在のいずれとも混同されることはない。この力を完全に所有しているものは何もなく、またすべてはこの力に与っている。この力は、それが宿っている個別の主体からはまったく独立しているので、それらの主体に先立っていて、またそれらよりも生き永らえる

『宗教生活の基本形態 上』 強調者は引用者

 ここからデュルケームは、近代社会にも同様の「宗教」の「力」が社会を構成している要因として作動していると説く。驚くべきことは、それが近代において覇権を握り始めた「自然科学的力」とも連続的なものとして位置付けられている点である。「宗教の力」、「自然科学的力」、いずれにせよ我々が集団的に生活を営む限り、その背景には個人を共同体へと組織し、それを維持するための何らかの「力」が行き渡っているとデュルケームは捉えるのだ。

 ちなみに、デュルケームが強調する「力」の概念は、現代に至るまでしばしば参照されるものである。一例を挙げれば、柄谷行人の『力と交換様式』(2022)の冒頭には、デュルケームが引かれている。柄谷もまた、現代の資本主義社会の背景には「霊的な力」――「資本主義という宗教」とその幻想がもたらす拘束的な「力」!――が作動していると考えるからだ
 
 『宗教生活の基本形態』は大部の著作であり、専門的な観点から検討したわけではないので、細部にまで目を届かせることはできなかったが、社会の本質に「宗教」を見出すデュルケームの議論は現代社会の様相を考える上でも示唆に富むものであった。

◯タラル•アサド『世俗の形成』
(レジュメ担当:古木獠)

 もう一冊扱ったのは、デュルケームとは対照的な志向を有する、タラル・アサドの『世俗の形成』(2003)である。サウジアラビア生まれでイスラム系の出自を背負ったアサドは、現代の政治思想に「宗教」という観点を導入し、「ポスト世俗化論」(世俗主義の乗り越え)をリードする思想家として知られる。

 『世俗の形成』におけるアサドの主張を端的に要約すれば、「世俗主義」なるものは、西欧の近代ナショナリズムとともに形成されたものである、という構築主義的なものだ。本書の「序章」でナショナリズムが近代的な構築物であることを喝破したベネディクト・アンダーソンを参照しながら、「水平的連帯に依拠するものであるとされる近代世俗社会の空間に関する疑問点」が提起されているように、「近代国家」という「想像の共同体」こそが「宗教」を「私的」領域に押し込めているとアサドは述べる。

 世俗主義の教理が私的理性と公共的原則との区別を要請するものであるとすれば、それはまた、「世俗的なもの」によって前者に「宗教的なもの」を振り当てることをも要求する。(中略)ある言説、ある行為を「宗教的」あるいは「世俗的」とするのは何によってであろうか?

『世俗の形成』強調は引用者

 このような観点から、本書では系譜学的に「世俗主義」が西欧思想に内在する問題として辿られ、繰り返し世俗/宗教、公/私の線引きが問い直されることになる。発表者の古木は、法学・憲法学を専門としているので、法学的な観点から見ても、その線引きが恣意的=権力関係に依存することが発表を通じて裏付けられた。そして、それは『近代体操』創刊号における古木論のテーマとも通底している問題意識であった。

 こうしたアサドの観点から言えば、西欧社会における「宗教」概念を延長し、それを普遍化しようとしていたデュルケームは全く西欧リベラル世俗主義者の典型に他ならない。
 
 アサドに言わせれば、現代の我々にとっての「聖」と「俗」の線引き自体が、「世俗主義」の国家的要請に基づいている。このようなアサドの議論がクリティカルなのは、彼が9•11の経験を、現代のリベラル「世俗主義」のアポリアとして捉えている点である。近代社会がもたらした世俗/宗教、公/私の線引きにおいては、「自爆テロ」を捉えることができないからだ。我々がその事件の勃発に「恐怖」(horror)せざるを得なかったのは、「世俗主義」が作り出している世界観の下では、その行為を理解することができないからだとアサドは説く。

本書『世俗の形成』自体、9.11アメリカ同時多発テロの衝撃から執筆されたという。

 アサドはのちに『自爆テロ』(2007)にて、9.11の経験を再度焦点化している。そこでは「恐怖」によってイスラムに対して思考を閉ざし、「テロへの戦い」を合理化するリベラル「世俗主義」者に反発を示しながら、原理主義ともまた異なる形で「宗教」の本来あるべき位置付けを思考する困難な道が探られることになる。

 ここで、我々にとって興味深いのは、『自爆テロ』の日本語訳が刊行される際に、アサド自身の手によって「日本語版への序文」が付されている点である。アサドはそこで日本軍の神風特攻隊について言及している。確かに、思い起こせば、9.11からさらに60年ほど遡れば、日本軍もまた特攻攻撃という一種の「自爆テロ」をアメリカに仕掛けていたのであり、アメリカはその理解不可能な攻撃を「恐怖」として捉えていたのであった。同書の「解説」の磯前順一が述べるように、占領軍体制は日本人の宗教認識においてもアメリカ製の世俗/宗教、公/私の線引きをもたらした。アメリカにとってイスラムが「他者」であるように、戦後の日本人にとって戦前の日本人もまた「他者」である。戦後の訪れとともに日本もまた世俗化されたが、戦中の皇国ファシズムを捉える宗教論を現代の我々が持ち得ていないことを、アサドの議論は突きつけている。

 討議の中でも、アサドの議論を引き受けた上で、我々の日常的な振る舞いの捉え直しが問題になった。また、折口信夫や柳田國男が提起したような問いは、ここからどう考えられるかが俎上に載せられた。

 次回以降は、このような土台に立ち、現代社会における宗教の位置や、我々の宗教認識の歴史性についてさらに検討を深めてゆく。

 次回読書会は4月15日の20:00~、テキストはジャック・デリダ『信と知』、モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』である。下記の記事に読書会の案内があるので、もし興味があればご参加いただければ幸いです。


(文:近代体操同人、松田樹)


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