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【第5回】聖性論読書会レポート:安丸良夫『神々の明治維新』、ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』

 近代体操では、「聖なるもの」という概念をめぐって、読書会を開催しています。哲学・文学・宗教・信仰・言語・現代の消費文化など、さまざまな視点から、このテーマについて考えていきます。読書会での議論を通じて、論点を見つけだしていき、最終的に、『近代体操』第二号にまとめていきます。読書会はまだ続きますので、ご興味のある方は以下のリンクからご参加ください。

(※ 読書会概要はこちらのリンクでお読みいただけます)

 この記事は、2023年6月18日(土)に開催された読書会のレポートになります。この読書会で取り上げられたテキストは、安丸良夫『神々の明治維新』およびヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』です。



安丸良夫『神々の明治維新』(1979)

本書の概要

 安丸良夫は、1934年から2016年まで生きた、近世・近代の⽇本思想史・宗教史が専門の歴史学者である。著作に『⽇本の近代化と⺠衆思想』『近代天皇像の形成』『現代⽇本思想論歴史意識とイデオロギー』などがある。  

 『神々の明治維新』は「日本の近代化の過程において神仏分離や廃仏毀釈はいかなる位置づけなのか」という問いをめぐって書かれている。この問いへの簡潔な答えとして、本書の主張は、神仏分離と廃仏毀釈を通じて、⽇本⼈の精神史に根本的な⼤転換が生まれ、この転換は現代の日本人の精神のありようをも規定している、というものである。

 しかし、それと同時に、次のような問いもまた生じてくる。たとえば、それらの影響で仏教などの既成宗教の転換の内実はいかなるものだったのか。そして、日本人の精神史的伝統の全体に、どのような転換を生じさせたのか。また、そこに、どのような葛藤や闘争、内的や外的な抑圧の問題があったのか。それらの問題をこの本は扱っている。

神仏分離と廃仏毀釈の発端とその背景

 本書によれば、神仏分離と廃仏毀釈につらなる諸政策の発端となったのは、慶應四年三月に出された布告からである。これは、「王政復古から⿃⽻伏⾒の戦い、官軍の東征を経て、佐幕派と公武合体派の敗退があきらかとなり、薩⻑派に主導された集権国家の構想の優位性が確⽴された段階」においてである。この布告によって、祭政⼀致と神祇官再興と全国の神社・神職の神祇官附属が定められ、それ以降、神仏分離と廃仏毀釈にかかわる政策が新政府の布告類のなかで具体化してくる。

 しかし、神仏分離と廃仏毀釈といっても、実際、何が分離され、何が捨て去られていたのだろう。著者は次のように述べる。「神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである」という(本書6頁)。

 つまり、神仏分離と廃仏毀釈の背景にあるのは、この独特の国体神学が現実政治の場で具体的な役割を果たそうとする政治的状況である。薩⻑倒幕派は幼い天⼦を擁して政権を壟断するという非難に対抗して新政権の権威を確⽴するために、天皇の神権的絶対性をなにより強調されねばならなかったという。国体神学が、その理論的な根拠づけとなった。さらに、こうした政治的状況に加え、対外関係の緊迫のなかでのキリスト教の影響力に対する強い不安と恐怖もあった。新政府の開国和親政策のもとでは、キリスト教の浸透は不可避だと考えられ、これに対抗するためには、⺠族的規模での意識統合をはからなければならなかったのだ。

日本人の精神史的転換

 しかし、古代的神政国家的体制のなかでのみ現実的に機能しうる祭政⼀致や神祇官制が、近代国家としての明治の国家体制の原理になりうるはずはなく、明治の国家体制は、なんらかの程度で欧⽶のそれを模倣せざるをえない必然性をもっていた。国体神学は、結果的には神社祭祀という儀礼的側⾯に後退したのちの国家神道によって、擬似的に引き継がれたにすぎなかった。この後退は、国体神学の教説がその個々の教条を離れて、多様な媒介性を介して⽇本⼈の精神に内⾯化されるということによって贖われたのである。これは、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈、神道国教化政策の失敗を意味するのではない。明らかに、それらの政策を媒介にして、⽇本⼈の宗教生活全体がすっかり転換してしまったのである。

 明治維新のなかで、皇統と国家の功⾂こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに反対することができなかった。それが当時の⽇本⼈の宗教意識に現実に可能であったことは、神々への崇拝をできるだけ儀礼的な次元におしこめ、その代償として、そうした神々への崇拝に含意されていたはずのイデオロギー的内実を内面化し、国家意思の前にそれぞれの宗教の存在価値を証するのである。

 今⽇の⽇本⼈の初詣や結婚式といった宗教的⾏為が深い宗教性なしになされるのは、その由来からして当然である。深い内省なしに、雑多な宗教的なものがほとんど習俗化して受容され、そして、ほとんど無自覚のうちにそのなかに住むことを強要してくる習俗的なものが圧倒的に優勢で、そこからはみ出すと落ち着かなくなり、ついにはもはや神経症的な不安にさえ取り憑かれてしまうのである。そこに、日本社会の過剰同調的な特質があるのである。このような社会の体質を作り上げる契機の分析するには、神仏分離と廃仏毀釈についての考察が手掛かりを与えてくれているのである。

資本主義という宗教

 このような儀礼的な次元のみに存し、内面化されながら神経症的な不安に取り憑かれる宗教として、発表者はベンヤミンの論文「宗教としての資本主義」(『ベンヤミン・コレクション7』所収、ちくま学芸⽂庫)を参考に、資本主義の宗教的構造を持ち出す。「資本主義は、教義ドグマをともなわない、たんなる礼拝からなる宗教である」のだ(529 ⾴)。

 資本主義の宗教的構造には、三つの特徴がある。一つめは、資本主義は、純粋な礼拝宗教である。資本主義において、一切のものが直接的に礼拝とかかわることによってのみ意味を持つのであり、いかなる教義も神学も感知しないのである。二つめは、いかなる夢想も感謝も抱くことなく礼拝を執り行うことが資本主義である。三つめは、資本主義における「礼拝」は、罪を清めるのではなく、罪を負わせるものである。「この宗教の神は[…]、罪を負うという絶頂においてはじめて語りかけることが許される」のである。追わされた罪は、逃げ道のない状態を作り出す。この逃げ道のなさは、個人的で質的なものではなく、共同体にかかわる逃げ道のなさからくる不安の中で生じるのあるという。

ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』(2006)

「参加型」へとシフトしつつある消費文化

 今回の読書会で次に取り上げられたのは、ヘンリー・ジェンキンズによる『コンヴァージェンス・カルチャー』である。著者は「コンヴァージェンス」という語をキーワードとして、ポップカルチャーのファンたちが自発的にコミュニティを形成しその中で集合的に知識を生み出す参加型文化の構造を描き出している。その背景には、現代において世界的ヒットを記録したエンタメは、多くのファンたちが積極的に参加することで熱狂を生み出しているという事象がある。コンヴァージェンスによって、メディア企業は、メディアを消費するとは何かについての古びた想定を見直すよう求められているのである。ジェンキンズは次のようにメディア消費の古い形と新しい形を対比する。

もしも、かつての消費者が受動的だとみなされていたのであれば、新しい消費者は能動的である。もしも、かつての消費者は予測可能で「そこにいて」と言われたところに止まっていたのならば、新しい消費者は放浪するし、ネットワークやメディアへの忠誠心の低下も示している。もしもかつての消費者が孤立した個人であったのならば、新しい消費者はもっと社会的につながっている。もしも、かつてのメディア の消費者によって作られた作品がひっそり隠れていたものであったのならば、新しい消費者は今ではうるさ型であり広く知られた存在である。

本書50頁

 もしそれを敢えて近代の歴史の中に位置付けてみるならば、19世紀が民俗文化(サーカス、キャンプファイアー)という非商業的な草の根のコミュニティであれば、20世紀はマスメディア文化(テレビ、新聞、映画)という商業的な形であり、そして21世紀に入るとネット文化とファン文化という商業を通じて回復された草の根コミュニティである、それを本書はコンヴァージェンス文化と呼ぶ。

消費文化と政治の新たな絡み合い

 コンヴァージェンス文化の出現は、政治的な次元を含意している。本書の冒頭で2001年9月11日の米国同時多発 テロに関して言及しているが、9.11に対する草の根的な反応は、消費文化を通じて、市民が政治を語り、思いもよらない結合を呼び起こす新しい時代のメディア文化を予告しているというのである。それがYouTubeの時代になると、「若者たちはポップカルチャーと戯れることで自身の声を発信し、公共的なプロジェクトや各種の政治運動への参加を通してその声を展開する」のである(本書492頁)。その最たる例は、ネットに流通するさまざまな政治的風刺のミームやパロディ動画であろう。ジェンキンズは、パロディ動画を二つの視点の間での交渉の試みとして解釈する。インターネットのパロディはしばしば「政治的に正しくない」スタイルで、これまでの世代が公的な政策について議論してきた言葉や前提に真っ向から反するのは、政策論争や選挙キャンペーンを構成するための代わりの言語を提供し、ポップカルチャーを手本としながら異なる倫理的・政治的要請に応えるものとして制作されているからである。これらのパロディ動画は、若い有権者に選挙に参加する動機を与えたと捉えてもいいのだろう。

 また、発表者(松田)は、大塚英志『 シン・モノガタリ・ ショウヒ・ロン』を参考に、次の視点を提示する。大塚によれば、ジェンキンズ以降、この参加型文化はウェブ上の民主主義と結びついて議論されてきた。本書『コンヴァージェンス・カルチャー』の和訳が発売された際に、オードリー・タン(台湾の「ひまわり学生運動」でウェブを通じた市民参加の実践者)が帯のコメントを寄せているが、それはファン活動と政治参加を「いささか楽天的に」結びつけようとしているというのである。ジェンキンズが考える枠組みは民主的であり、個々の参加者の関係は相互的であり、中央集権的ではないのが分かる。すなわち、これは、ファンジンやファンコミュニティだけでなく、そのままインターネットのポジティブな可能性でもある。しかし、ファンフィク(二次創作)は今やプラットフォームが中央集権的にトランスメディアストーリーテリングを管理する。大塚はこのような動員モデルに参加型ファシズムを見出し、反民主主義的装置として機能すると考えるのである。

扇動の技術と陰謀論

 そのようにして、ジェンキンズが本書で夢見ていた民主主義的な光景とは反対に、ウェブ上の参加型文化による政治参加は、むしろ日本におけるネトウヨや北米のQアノンを生み出すようになった。その裏には、コンヴァージェンス文化の完全なる参加者になるために必要な能力としての「散らばった断片をつなげる能力」そして「ほかの人とシェアできるようにインターネットで創るものを流通させる能力」が働いているのである。

 引き続き大塚(前出書)を参照すると、Qアノンの信奉者たちは、JFK やイルミナティやノストラダムスといったかつての都市伝説の題材や、様々な陰謀論、サブカルチャーから借用されたフラグメント化された情報を「調査」し、組み合わせ、そして、その間に生じた「空のスペース」を埋めるのである。「空白」そのものを自ら創造し、創造によって埋めていく。発表者(松田)はここで『 失われた未来を求めて』(木澤佐登志)で取り上げられたQの投稿を付記する。

E メール?
なぜバイデンはそのようなものをコンピュータ修理ショップに渡すリスクを冒すのだろうか?(…)
注文のために何度か連絡を取ろうとした?
メッセージは残されたのか?
バイデンは、ドライブに保存された内容が*パパ*とファミリーを葬ることになると知っていながら、
なぜ取り戻そうとしないのだろうか?
問題のある人生?
問題を抱えた家族?
見た目は人を欺く Q

Qが2020年10月18日に匿名掲示板において行った投稿の一部
木澤佐登志『 失われた未来を求めて』より抜粋

 この投稿において注目すべきなのは、投稿の内容よりもその形式である。すなわち、この断片的で暗号化された文章である。また、情報を直接伝えるのではなく、「なぜ〜なのか?」といった疑問形を多用した、オーディエンスに問いかけるようなテキストスタイル 。こうした、きわめて断片的、かつ暗号的で著しく解像度が低い投稿スタイルを、 Q自身がいみじくも「パンくず」(crumbs)と表現している 。Qの暗号的なメッセージを共同で一つ一つ「リサーチ」して解き明かしていく。すると、点と点とが線で繋がり、 その背後にある「大きな物語」すなわち合衆国を脅かす巨大な陰謀が、立ち現れてくるのである。

 匿名掲示板のような参加型のカルチャーでは、投稿者とは別の人間が「行間を埋める」「説明を加える」という作業がなすゆえに、そこでの議論が活性化されるのである。これは、カードの裏面(たとえば「ビックリマン」)のフラグメント的な情報から隠された神話体系の想像=創造に参与するモデルそのものである。一回性の物語の生成ではなく、「サーガ」の獲得と参与を求めるシステムなのであると、大塚は述べる。ジェンキンズが民主主義的な政治参加と結びつけた参加型文化はまた、このような形でも体現されているのである。

最後に

 今回の読書会で、古木は安丸良夫『神々の明治維新』を取り上げ、日本人の精神史的転換について概観し、そこに潜む神経症的不安を宗教的歴史からの説明を試みた。さらに、ベンヤミンの論文を取り上げ、このような宗教的状態と似たような構造を持つのがまさに資本主義であるという視点を提示した。松田の発表ではヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』にもとづき、インターネットの時代における消費文化の新たな形である「参加型文化」を取り上げ、その政治的な動きとの絡み合いを考察し、最後に「陰謀論」の仕組みをこの視点から解釈することを試みた。「聖なるもの」を主題とするこの読書会において、現代社会の「宗教性」を解析するために、どちらも不可欠な理論的枠組みであろう。

 読書会は今でも続いており、次の読書会では大竹弘二『公開性の根源—秘密政治の系譜学 』とマリオン『存在なき神』を取り上げる予定である。また、第七回より、1回の読書会で1作のみを取り上げるターンに入るため、さらに集中した議論ができるだろう。読書会はいつでも参加可能で、飛び込み参加大歓迎なので、ぜひ次のリンクをご覧になってご検討してください。

(文:近代体操同人、草乃羊)

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