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掃除は瞑想。集中して我を忘れたら、心が活性化する 

 瞑想と聞くと、坐禅のような静かにじっと座っているイメージでした。
 しかし、

動的な瞑想もあるようです。

その一つが掃除。

 掃除は、ある種の瞑想状態を引き連れてくれます。
 掃除ではなくても、とにかく、動きながら、その一つの行為に集中したら、我を忘れて没頭したら、一種の瞑想状態になります。
 
 なので、皿洗いも、ただ洗うことに集中、なり切ったら瞑想。
 散歩も、「1,2,1,2」と歩くことに集中したら瞑想。
 さらに、食事だって、じっくり味わい、咀嚼する様子を感じながら食べたら瞑想です。
 
 実際、禅宗の修行の一つに掃除があります。
 ある僧侶の方の話では、坐禅で体を動かさない分の運動代わりとして、そして、「自我をなくすため」に掃除をするそうです。
 
 以前、NHKの番組で、その掃除の様子が放送されていましたが、びっくりするぐらい、「動いていました」。掃除する動きが全く止まらず、ある場所までは走って移動していました。また、拭く動作ひとつとってもかなりシステマチックな動きでした。
 動きが止まらず滑らか。拭く方向もきまりがあるみたいで、どの修行僧の方も同じ動きをしていました。
 番組を見た当時は、ただ、ただその動きに圧倒されていただけでした。
 
 年月が流れて、自分が「掃除に学ぶ会」参加するようになって、その意味が、わずかながら分かる気がしました。
 特にトイレ掃除で、便器を磨き続けているときに感じました。
 汚れが激しい便器に向き合って、とにかく、専用の掃除道具でごしごし、ゴシゴシと磨き続けていると、「一つになる」感覚、無我夢中で「我を忘れる」感覚がしました。

掃除前は不安や心配事で、頭の中にあれこれとおしゃべりが続いていたのが、いつしか、聞こえなくなりました。

 そんな状態になるポイントが、磨き続けるという「動き」にありました。
 動きが止まると、頭の中のおしゃべりが始まります。
 そして、次々と連想が思い浮かんで、「考え込む」「妄想に囚われる」状態になります。ロダンの「考える人」のイメージですが、「深刻」な感じになります。
 
 禅寺の掃除があれだけ激しく動きまわるのも、動きが止まることで「考え事」「雑念」「妄想」を生まないための工夫なのかもしれません。
 
 NOTEで、たくさん読ませてもらっている「宗慧@活人禅寺」さんの記事にも

「まずは何も考えずに掃除をしてみましょうよ!やれば絶対にわかりますから」

 とありました。掃除の功徳についても書かれています。現役の僧侶の方の記事ですから、説得力があります。
 
 掃除をすると幸せな気分になれます。
 これだけで、十分かもしれません。
 
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです 

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