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魂と魂のぶつかり合い~クリエイターとエディターの火花の結晶化 

   地域の読書会に参加しています。
 森信三先生の「修身教授録」を読み進めています。

 本の内容、感想交流からの学びも多いですが、会に参加される方のお話やもってきてくださる資料からの発見も楽しみの一つです。
 先日は、元教員の方から、次のようなお話を聞きました。
 
 小学校4年生の国語教科書に載っている「ごんぎつね」と言う物語。
 多くの教科書に採用されていて有名です。なので、日本国民の半数以上が読んだことがあるのではないか、といえるお話です。
 
 作者は、新実南吉さんですが、教科書に載っている「ごんぎつね」は、新実さん作品とは思えないほど、添削、修正された後の「完成版」なのだそうです。
 たとえば、最初の原稿は次のような内容、文でした。
 
・書き出し部分は丸々削られ、現在の有名な書き出しである「これは、私が小さいときに、村の茂平と言うおじいさんから聞いたお話です」になっている。
・茂平と言うおじいさんは、最初は「茂助」だった。
・ラストシーンもはじめは、
「『権(ごん)、お前だったのか、いつも栗をくれたのは・・・・』権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました」
だった。
 
 現在のラストシーンは、「『ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは』。ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました・・・」になっています。
 
 これは、当時、「赤い鳥」という児童雑誌を主催していた鈴木三重吉さんが、徹底的に書き直したものです。
 加筆、修正は300か所以上を超えたと言われています。
 直された新実さんの心情がどうだったのかは、想像がつきませんが、

現在の完成版のほうが、見事な文学作品に仕上がったと言ってもいいと思います。

 ハッピーエンドばかりの小学校の教材の中にあっては、珍しい作品です。
 しかし、その分、

「互いに分かり合えない、理解し合えない(し合えなかった)悲しさ」
「悪をゆるす心の大切さ」
「どうしていたら、互いに幸せだったのか」

のように、いろんな読み取り方、考え方もできます。そこが、長年、読み継がれている理由でもあるかもしれません。
 
 歌や絵画、そして、文章にはクリエイターの想いが入っています。
 そこに編集者と言う形で、「第三者」が口をはさむ、添削をします。
 きっと、クリエイターからしたら、心穏やかではいられないと思います。
 精魂傾けて作った作品に「けち」をつけられるからです。

 しかし、

クリエイター自身が、自分の作品に対して客観的に良しあしを判断するのは難しいですし、限界もあると思います。やはり、多くの人の目で、手で、添削されて、見直されて、より良い作品いなっていくのだと思います。

 今はいろんなサイトやユーチューブを始め、様々情報提供がされています。

 その中で「本」に一段高い価値や信用が置かれるのも、こうやって、作者と編集者やその他出版に関わる人たちの添削、修正、見直し、裏どりなどがなされているからだと思います。
 ある意味、

作者と編集者たちとの火花をちらした「闘い」のあとに、結晶化されたものが、作品として、世に出ています。

 
 「ごんぎつね」の作品にまつわる話を聞いたおかげで、今後、本を手にするときに、ちょっと違った気持ちで読書に向き合えそうです。
 
 
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです

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