白鳥 2(完)|短編小説
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「花嫁様、綺麗でしたねぇ。料理人達までその話で持ちきりですよ」
ナタリアは鏡の前に座るメイの髪に櫛を通しながらのんびりと言う。
宮殿中が花嫁の話で騒がれるのは当然のことと言っても過言ではなかった。今日の今日まで誰も何も花嫁について知らなかったのだ。義兄がそれを許さなかった。
そもそも彼が妃を迎えると発表したこと自体あまりに突然の出来事だった。晴天の霹靂とはよく言ったもので、想い人の存在どころか、彼に妃を娶る気があることすら意外なことのように思われた。
義兄は人望厚く、民に慕われる優秀な君主であった。しかしそれほどに、時に冷徹なほど沈着した様子は、彼が色事には無縁であると人々に思われる所以でもあった。
婚礼の儀当日まで義兄が庶民の出である己の花嫁を隠し、守り通したのは彼の英明さ故である。そして、それほどまでにあの男に愛された娘を誰もが只者ではないと噂した。
「姫様もいつか、花嫁になられるのでしょうか?」
ナタリアは「もうお年頃ですものね」と付け足す。鏡に映る彼女の視線はメイの髪に落ちている。
メイは着替えたばかりのパープルのドレスをぎゅっと握りしめた。ナタリアはぱっと顔を上げ、鏡を見て微笑む。
「ほらほら、下を向かないでください」
彼女はそっとメイのこめかみに触れてメイに正面を向かせた。
慣れた手つきで髪を結い上げるナタリアをメイは鏡越しにじっと見つめる。
「さあ、出来ましたよ」
完成した髪型はパープルのドレスに良く映えた。
メイが身につけている淡い紫のドレス。ナタリアはこの色が一番メイの肌色を美しく見せると、ことあるごとにこのドレスを着せたがった。
櫛を置いたナタリアがメイの肩に手を添えると、彼女の香りが一層近くなる。彼女はメイに顔を近づけ、一緒になって鏡を覗き込んだ。首筋をナタリアの吐息がくすぐる。
「ナタリア」
メイは速まる鼓動を悟られまいと息を呑む。
「私、花嫁にはならない」
実際、メイに縁談が持ち上がるのは時間の問題だった。今年十七を過ぎようというのに、むしろ遅い方である。
メイは恐れていた。国を離れ、ナタリアの傍を離れ、どこか辺境の地へ追い出されることを。
「メイ」
ナタリアは低めた声でそう呼ぶと、指をメイのデコルテに滑り込ませる。
「良いのよ。お嫁に行っても」
紡がれたその言葉にメイの胸が詰まる。
「私はどこまででも、あなたについて行くから」
ナタリアの指はメイの鎖骨をなぞった。ナタリアの指が、熱がメイの腹の底をざわつかせる。
「ナタリア……」
メイが首を回して彼女の方に顔を向けると、ナタリアは熱い息の漏れるメイの唇に、赤く色付いた彼女のそれを重ねた。
ナタリアはぎゅっとメイを抱きすくめていたが、不意にその腕をほどく。
廊下を使用人が走る音がする。
ナタリアはメイの目を覗き込み、艶やかに微笑む。
「メイ、とっても綺麗よ」
最後にもう一度、ナタリアはメイの頬を撫でた。
婚礼から数ヶ月が過ぎた。
初めの頃は、大公を誑かした魔女だの権力の悪魔だの誹られていた花嫁も、今や妃殿下と敬服され、大臣を従えるまでになった。
大公は大公で、情事に浮かれ、我らが君は執政を放り出すのではないかと、そんなことを言い出した貴族もいたが結局それは杞憂に終わった。
人の口とはお節介なもので、そうなれば今度は世継ぎの心配だの、実は愛のない関係だの不仲だのと勘ぐる者もいるのだが、メイにはそれもまた杞憂であるように思われる。
大公は宮殿中どこへ行くにも妃の傍を離れようとしなかった。妃もまた政に入れ込む大公を気遣い、傍らでその手助けに努めた。
メイが執務室の前を通りかかると、ちょうど大臣らと共に大公が出てくるところだ。隣にはやはり妃がいる。
メイは先程廊下ですれ違った騎士隊長に大公はどこかと訊かれたことを思い出す。
「お義兄様。ブラッカ隊長が探しておられましたよ」
「そうか。ありがとう、メイ」
義兄は横目でメイを認めると、それだけ言って足も止めずに遠ざかっていった。いつものことだ。何かを尋ねる己が妃に顔を寄せる彼の後ろ姿を見ながらメイはふっと息を漏らす。
「姫様。ここにおられましたか。探しましたよ」
宮殿では常に誰かが誰かを探しているようだ。
ナタリアはメイに封筒を差し出した。贈り主の名にメイは顔をしかめる。
「また来たのね?」
「はい、贈り物も沢山届いております」
ナタリアはメイの心中を察したのか微苦笑を浮かべた。
「顔も見たことないのに、どうして愛しているだなんて言えるのかしらね」
メイはここ最近しつこく求婚してくる侯爵の手紙に目を通しながら傍らのナタリアに呟く。
「さぁ。きっと殿方というのはそういうものなのです」
ナタリアは半拍ほど沈黙して、そう答えた。
夜更け。なかなか寝付けないメイは起き上がって窓の外に目を遣る。細い月が深い闇夜を裂いて白い光を投げかけている。
メイはガウンを取ってそっと自室を後にした。人々が寝静まった宮殿内で、一人足音を立てながら蝋燭に照らされた道を進む。月明かりに誘われるようにしてやってきた庭園では、涼しい風が草花を揺らし、噴水の音はメイのどこか鬱屈していた気持ちを安らげた。
不意に話し声が耳に入り、メイは足を止める。
木々の隙間から声の方に顔をのぞかせると、月光を浴びた美しい女性の横顔がメイの瞳に映った。その女性に視線を投げかけ、時折低く甘い笑い声を漏らすのは彼女の夫だ。
義兄は宮殿の誰も見たことのないような和らいだ表情で妻を見つめていた。
メイは息を詰め、思わず二人を凝視する。義兄のそんな様子にメイの心はますます塞いだ。
昼間の手紙に綴られていた言葉の羅列よりも、ナタリアがメイに触れる時のどんな仕草よりも、妃に向けられた義兄の眼差しは美しい。
どうすれば、メイはあんな風に心からの慈しみを向けてもらえるのだろう。あの月明かりの下の白鳥のように。真っ直ぐに見つめ合って、君が欲しいと言ってもらえるのだろう。
気がつけばメイは二人から逃げるように駆け出していた。
月明かりから逃れ、暗い石作の廊下に呪われたように立ち尽くしていると、背後に人の気配を感じる。ナタリアだ。
音も立てずに振り返るメイにナタリアは眉を潜めて言葉を零す。
「お部屋にいらっしゃらないので心配しましたよ」
メイは返事の代わりにナタリアの手を取り、つねった。
ナタリアは驚いて一歩後ずさる。
「姫様」
戸惑うナタリアにメイは飛びかかり、貪るように唇を押しつける。
最初こそ抵抗を見せたナタリアだったが、メイが彼女の唇を解放すると、次に迫ってくるのはナタリアの方だった。
固く冷たい床の上で、メイとナタリアは互いの身体をまさぐり、しばしの間、身を寄せ合って溶け合う熱を感じていた。
あの夜から、メイはナタリアに求められることが増えた。その度にメイははぐらかして逃げた。ナタリアの渇いた目を見ると、庭園で見たあの光景が思い出され、メイは苦しくなった。
夜中、うなされて目を覚ますと、メイは庭園に出て月を眺めた。満たされない心の隙間が白い光で埋められるかしらと、何かがそう思わせるのだ。
その夜は噴水の淵に先客がいた。寝間着姿で、彼女もまた月を見上げている。
義姉はメイの気配に気づくと、小さく微笑みかける。彼女はメイが隣に腰を下ろしても嫌な顔をしなかった。
「眠れないのですか?メイ」
彼女はあの婚礼の日もそうしたように、真っ直ぐにメイを見つめる。
「悪い夢を見たのです」
メイが打ち明けると義姉は僅かに目尻を下げた。そしておもむろに手を伸ばし、メイの頬にそっと触れる。そのあまりに妖艶な仕草にメイの胸の奥がトクンと鳴った。
「異母兄妹と聞きましたけど、よく似ているのね」
彼女の唇から漏れる吐息にメイは自分の頬が赤くなるのを感じる。メイは意識して深く、夜の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
吐く息と共に言葉が漏れる。
「お義姉様は大公を愛してらっしゃるのですか?」
義姉はぶしつけにそんなことを訊くメイを可愛らしいとでも思ったようで楽しそうに頬をほころばせた。
「私は大公様をお慕い申しております。それに、大公様もまた、私を想ってくださっています」
そう告げる彼女の声は甘く切なくメイの胸に響いた。膝の上に揃えた手の甲に雫が落ち、メイは泣いていることに気づく。彼女はそんなメイを優しく引き寄せた。
「何か、辛いのですか?」
公妃が涙の向こうでどんな顔をしているのか、メイにはわからなかったが、その涙を拭う彼女の親指はきっと慈愛に満ちている。
彼女の温もりと月のように穏やかな声は胸いっぱいに広がり、メイにはそれがどうしようもなく哀しく思われた。
「お義姉様」
メイが声を震わすと、彼女はメイの手を握る。
メイは彼女の瞳に打ち明けた。
――私は、この抱えきれない想いをどうすれば良いのですか。この叶わぬ想いは激しく胸を焦がすのです。辛く、寂しいこの気持ちはなんなのですか。身が引き裂かれるようなこの葛藤を公女である私はどうすれば良いのですか。この激しい気持ちは、どうすれば良いのですか。
メイは言うほどに苦しくなり、同時に胸を渦巻く沢山の言葉と思い出が涙と共に溢れ出す。最後には息を切らすメイに彼女の瞳は憂いにも似た気遣わしげな色を滲ませた。
彼女は何も言わなかった。黙ってメイを見つめ、メイの言葉が途切れると、静かに口を開いた。
「私も、あの方を忘れたことは一度もありません。私が幼い頃から、あの方は私に沢山のものをくださいました。愛も哀しみも、生きる誇りも。私の全てはあの方と共にあると今でもそう思います。私も時折、ここにいて辛くなることがあります。今もまだ迷っています」
彼女は深い青の瞳をメイから逸らさない。
「でも私はあの方を他の誰よりも愛しているのです。だから、私はやらなければならないのです」
メイは息をするのも忘れて彼女を食い入るように見つめた。
あの日、メイに立てと言った女性はこんなにも強く、儚く、美しいのか。
不意に男性の低い声が静まった庭園を駆け、メイはそちらを見る。
「レーカ。目を覚ましたらいないから、何かあったのではと肝が冷えたよ」
明かりの下に現れたのは大公だ。
義兄はメイがいることに一瞬驚いた顔を向けたが直ぐにその視線は横にずれた。
「あら、ごめんなさい」
美しい女性は微笑み、立ち上がって夫の傍に寄る。メイはその様子をただ眺める。
「メイも早くお休み」
義兄はそれだけ言い残し、妻を連れて去った。メイは遠ざかる二人の背中を目で追う。
その夜は、月の光が一段と明るい夜だった。
それから一ヶ月後のことだ。
「姫様!姫様!」
息せき切って部屋に飛び込んできたナタリアは、メイを見た途端、顔を引きつらせカタカタと震え始める。
「ナタリア?」
メイが駆け寄ると、消え入りそうな声でナタリアは言う。
「大公様が、大公様が、お亡くなりになったって。お庭で、誰かに刺されたんじゃないかって」
メイは直ぐにはナタリアの言葉が理解できなかった。
「お義兄様が?」
メイは自分の呼吸が浅くなっていくのを感じる。理由はわからない。
兄はずっと、メイに対してどこか他人行儀だった。メイは、年の近い家族であるはずなのにと思うと同時に、彼は半分しか血の繋がらない自分を疎ましく思っているのだと信じていた。話しかけるのはメイばかりで、その返答でさえ常に素っ気なく、短かった。
義兄はきっとメイが死んでも悲しいとは思わない。
「一体誰が……」
それなのに、メイはそう言うのが精一杯だった。
ナタリアは躊躇いつつも口を開く。
「大臣の半分は公妃の仕業だと噂しています」
「嘘よ!」
突然声を荒げたメイにナタリアはピクリと肩を震わせた。
メイの脳裏に一月前の夜が蘇る。切なげに打ち明けられた妃の心の内をメイは思い起こす。
「そうよ。お義姉様のところに行ってあげないといけないわ。きっと泣いているもの」
兄に流す涙の代わりに訪れたのは、青い瞳でメイを見つめる、あの美しい女性はどうしているだろうかということだった。
メイが目の前のナタリアを押しのけようとすると、ナタリアは抵抗した。
「ダメよ、メイ!本当に公妃様の仕業だったら、あなたも殺されるわ!」
「お義姉様が大公を殺すはずがないわ!だってお義姉様は、愛していたもの!」
メイが絶叫するとナタリアが声を張り上げる。
「違うの、メイ!聞いて!―」
しかしナタリアの言葉はちっとも耳に入らなかった。メイの耳を支配するのは、目を閉じると聞こえる、あの夜の彼女の言葉だ。
きっと自分は愛しているのだと、そう吐き出したあの夜。彼女もまた、愛する心の内を打ち明けてくれた。
そうか。きっとそうなのだ。そういうことなのだ。
「――だからメイ、私と一緒に逃げましょう!」
「ナタリア、ナタリアは私を愛しているの?」
一瞬でナタリアの目の色が変わる。
「もちろんよ、メイ。私はあなたのことを愛しているわ。だから、あなたを愛しているから、私と一緒にここから逃げると言って!公妃がここに来る前に」
ナタリアは懇願する。
「わかったわ。逃げましょ」
メイはまるでうわ言のように呟く。ナタリアの腕が離れるとメイは傍らのチェストに手を掛けた。
「メイ?」
メイの手に握られた物を見て、ナタリアは困惑する。
「ナタリア、私もあなたが大切よ」
愛しいナタリアに歩み寄ると、ナタリアはたちまち目に涙を浮かべて後ずさった。そして壁に背中を打ち、その目に絶望が浮かぶ。
「メイ、どうしたの?」
「ナタリア、あなたを愛しているわ。他の誰よりも愛しているもの」
メイがナタリアに飛び込むと、彼女の悲鳴と共に生暖かい感触が柄を握った手いっぱいに広がった。たった今まで、ナタリアの身体を駆け巡り、温めていた赤い血だ。
「メイ……」
苦しげに吐息が漏れる唇にメイはそっとキスをする。
少しずつ虚ろに伏せられていくナタリアの瞳に、メイは囁きかけた。
「ナタリア、私は愛しているわ。他の誰よりも愛しているわ」
己の声は記憶の中の白鳥と重なり、空虚な部屋にこだました。
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