北川景子、SEVENTEEN撮影から第1子出産まで~本人のブログで振り返る14年半(6)
女優として虚構を演じ続ける一方で、web上に文字と写真で残す本来の姿。北川景子の人生をブログのみで追いかけた先には何が見えてくるのか。シリーズPart6。
(※今回より、写真の一部は実際のブログ記事とは異なるものを使用しています。実際の写真は公式サイトにてご確認下さい。引用記事の冒頭の(日付)をクリックすると引用元に飛びます)
(過去の記事はマガジンにまとめてあります)
(前回はこちら)
第13章 2014/神戸/故郷の記憶
(2014.12.10)
先日は3日間ほど、故郷神戸でロケをしてきました。
ファッションショーや映画のプロモーションで神戸を訪れたことは過去にも何度かありましたが、
しっかりと作品のロケをするのは今回が初めてのことでした。
(中略)
神戸は私が17歳まで育った街なのですが、父と母と弟と、家族4人で過ごした楽しくて美しい思い出も、
阪神淡路大震災で失った悲しみも、それから歯を食いしばって立ち直った人々の勇敢な心も、
不安を抱えたまま上京した日の自分も、なかなか仕事が無くて胸を張って帰れなかった空白の時代も、
懐かしさも、温かさも、切なさも、全てが詰まった街です。
もちもん今回は撮影で訪れたので、センチメンタルになりすぎることはなかったのですが、
11年前、「芸能界にいくんだ」と言って飛び出すように上京してから、
街でばったり友人に会ったらどうしよう、とか
「仕事の方はどうなってるんだ」と知人に聞かれたら返す言葉がないなぁ、とか
そんな風に考えると、なんとなく恥ずかしくて帰ることが出来なかった神戸へ、HEROの撮影隊と一緒にこっそり帰れて嬉しかったです。
(つづき)
神戸ルミナリエは、今年で20回目を迎えました。
1995年の12月に阪神淡路大震災の犠牲者の方々への鎮魂の意を込め、
そして神戸の街の復興・再生への夢と希望を託し始まったもので、神戸に住んでいたころは毎年必ず家族で見に行っていました。
小学生のころ、人ごみで家族とはぐれて大変なことになった年があったなぁ、
弟と大喧嘩して父に叱られた年があったなぁ、
反抗期で、父と一緒に行きたくないと思いながらいやいや来た年もあったなぁ、
色んな年があったけど、ルミナリエは毎年ここで輝いてくれてよかったなぁ、
神戸は頑張ったなぁ、みんなで力を合わせてここまで立ち直ったんだなぁ。
ルミナリエを眺めながらそう思いました。
あの日、奇跡的に命だけは助かって、家族も無事で全員生き残ることが出来たこと、今もとても不思議です。
弟の手を引いてパジャマに裸足のまま走って避難したこと、
走りながら見た光景のこと、瓦礫、火の海、すぐ隣で天に召された方のこと、これからどうなってしまうのかと漠然と考えたこと、きっと忘れることはないと思います。
なぜあの人で、私じゃないのか、なぜ私は走るのか、生きるのか。その答えはまだ見つかっていません。
あのとき生かされた意味をしっかり考えて、与えられた命に感謝して、置かれた場所で地に足をつけ明日からも生きてゆこう。
そして残された者の責任をしっかりと果たしてゆこうと
ルミナリエを見ながら、犠牲者の方々に想いを馳せました。
神戸がこれからも美しく、温かい街で居続けられますように。
神戸がこれからも笑顔を失わず輝けますように。
あの日から20年。このタイミングで故郷に帰れてよかったです。
第14章 2015/エランドール賞
(2015.2.9)
先日、エランドール賞新人賞を頂き、授賞式に出席させていただきました。
お芝居に関する大きな賞の受賞は初めてのことで、受賞のお知らせを受けた時はとても驚きました。
自分一人の力では到底このような賞を頂くことはできなかったと承知しています。
授賞式での御挨拶でも申し上げましたが、ここでも改めて、育ててくれた両親、家族、
上京してから本当の親のように温かく、厳しく私を育ててくれたスターダストプロモーションの社長、
いつも家族のように接してくれる会社のスタッフの皆、これまでお仕事で私に携わって下さった全ての関係者の皆様、
そして、いつも温かく見守り支えてくださっているファンの皆様お一人お一人に感謝の気持ちを込めまして
心からありがとうございますと伝えたいです。
このような賞をいただけましたのは、皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。
受賞のご挨拶では、人生で最大と言っていいほど緊張しました。
いつもどんな時もその時の素直な気持ちを言葉にして話したいという拘りがあり
この日も何もスピーチを用意せず壇上に上がったのですが、緊張で足が震えて声が上ずって大変でした。
今回ばかりはちょっとぐらい話すことを考えておいて心に余裕を持つべきだったなぁと思いました。
そんな緊張のピークの中で、檀上からよく知るファンの皆様を発見し
「景子ちゃん、頑張れ!」と声をかけて頂いたことで、どれほど気持ちが救われたかわかりません。
皆様と目が合って、いつもの自分を取り戻して、深呼吸をして御挨拶をすることができました。
会場へ来てくださったファンの皆様、お花を贈ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
(中略)
デビューして11年、下手の横好きではありますが、地道にコツコツ活動を続けて参りましたら
このような幸せな経験をさせていただくことが出来ました。
まさかこんなにも早く受賞の経験をさせて頂けると思いませんでした。
これからもこの賞を励みに、一つ一つの役・作品と向き合い、精進していきたいと思います。
第15章 2015/タイムスリップ/学生時代
北川景子の学生時代の友人に「景子さん」が居る。たまたま下の名前が同じなのだ。彼女はブログ初期にも度々登場していた。
そして2015年3月。2人の景子は、当時のクラスメイト数名と共に再会を果たした。
(2015.3.9)
久しぶりのクラ女です。
昨年12月に皆が集まっていた時は私はドバイに行くことが決まり参加できなかったので、景子の発表会のおかげでまた集まれて嬉しかったです。
終演後、三軒茶屋の居酒屋さんで皆と話しました。
学生時代にタイムスリップして楽しいひと時を過ごしました。
クラスのしっかり者のかおりちゃんが「もう私たち10年になるって、知ってた?」と言うので、
「え?またまた。卒業してまた私たち6年くらいでしょう」と言いながらすぐに衝撃を受けてしまいました。
彼女たちと出会って10年でした。
同じクラスに配属されて新入生のオリエンテーションを聞いていた初々しかったあのころからもう10年…。
早すぎて本当に信じられません。
入学式のことや大学1年生の時のクラスの親睦会のこと(新宿だった)ははっきりと昨日のことのように覚えているし、
皆が全然変わっていないので10年の月日をなかなか実感できず不思議な感覚でした。
芸能界で生きる私にとって、普通の学生生活や学生時代の友人たちとの交流がどれほどかけがえのないものであるか、説明するまでもないと思います。
入学した時から皆が偏見を持つことなく、普通のクラスメイトとして接してくれたこと、今でもそれが変わらないこと、
きっと無理だろうな、と半ば諦めていた普通の楽しい学生生活を一緒に送ってくれたこと、今も普通の同級生として会ってくれることに心から感謝しています。
皆それぞれにお仕事に、家庭に生きていて、イキイキしていて良かったです。
皆本当に全然変わっていない。
私もこういう世界に生きているけれど、変わりたくない。
大阪女学院時代友人、明治大学時代の友人、セーラー戦士の皆。
それぞれの人生、生活があるから頻繁に会うことは難しいけれど、こういう昔からの友人より大切な存在はいないと心から思いました。
皆が友人で居てくれるうちは私はきっとちゃんと当たり前のことを当たり前に感じられて、真っ当で居られているのだと思います。
しっかりと地に足をつけていないと時々自分を見失いそうになってしまう気がしますが、明日からも等身大で生きていきたいです。
こんなにもしつこく書いてしまうのは普通であること、真っ当であることの大切さを本当に感じていて、普通でなくなってしまうことが恐ろしいからなのだと思います。
ここに書いて宣言したいのかな。
成長はしたいけれど、人として大切な部分は変わりたくない。
沢山のファンの皆さんがいつも私を見守って下さって、いつも色々なアドバイスを下さるからそうそう見失うことはないと思いますが。
精神を強く持って、前を見据えて歩んでいきたいです。
最後に、景子へ。素敵な機会をありがとう!そして、お疲れ様でした!
第16章 2015/別れ/曾祖母
(2015.3.19)
私事なので、皆様にお知らせすべきかどうか迷っていたのですが、昨年の秋に曾祖母が他界しました。
享年100歳の大往生でした。
以前、「瀬戸内まで」という曾祖母にまつわるエッセイを書かせて頂いたことをきっかけに、
曾祖母の様子を気にかけてくださる方が沢山いらっしゃったので、ここにご報告させて頂きました。
エッセイにも書いたのですが、曾祖母はお洒落が大好きで、つばの広い帽子と口紅のよく似合う人でした。
私が大学を卒業したころ、初めて「いよいよかもしれない」と、母から連絡を受けました。
その時私は北海道で一ヶ月こもって映画の撮影をしていて、気が気でなかったのを覚えています。
後日、曾祖母は奇跡的な回復を見せ、気が気でない家族、親族のことはお構いなしに元気に家に帰ってきた、と聞きました。
曾祖母らしい、と安堵しました。
その後も1、2年に一回ほど、風邪をこじらせたり、骨を痛めたりしながら、
「今夜が山場かもしれない」という連絡を何度か受けましたが、最後は必ず復活するのが曾祖母でした。
「元気で100まで生きようかい」というのが口癖で、戦争を経験し、夫を亡くし、何人かの子どもに先立たれ、癌を経験してもなお、
しゃんと背筋を伸ばして立っている人でした。
もともと強い人だったので、本当に100まで生きると誰もが思っていたし、とても可愛がってくれた曾祖母が亡くなるなんて、私には想像の出来ないことでした。
そして昨年、ドキュメンタリー番組でローマへ発つ前にまた、「いよいよだって」と母から聞かされました。
まさか、きっと今回だって大丈夫、でももしかして、ローマへの飛行機の中では何度もそんな考えがぐるぐると頭を巡りました。
まさかもう一度会うチャンスをくれずに逝ってしまうはずがない、と妙な決めつけをして、収録に臨みました。
しかし願いは届かず、ローマでの収録2日目のお昼に、亡くなったと連絡を受けました。
海外で仕事をしている私を気遣っての手短な連絡でしたが、とてもあっけなく感じました。
大切な人の死に目に会うのはあきらめなさい。
親の死に目に会えなくても、仕事に穴をあけないと誓いなさい。
自分には代わりがいないという自覚を常に持ちなさい。
この仕事を始めた時に当時の事務所の社長に言われた言葉をぼんやりと思い出し、
そうなんだよなぁ、そういう職業なんだよなぁ。と少し冷めた気持ちになりました。
来たばかりだけれど日本に帰りたい、と思いました。
大切な人が亡くなったというのに、こんな時に病院へ駆け付けることもせず、笑顔で仕事をすることが、褒められたことだとその時は思えませんでした。
この複雑な気分、いつかも味わったなぁ。そうだ、震災の時。
3.11の時もそうだった。揺れがおさまるのを待って撮影をしたし、その翌日も広告の撮影をしたんだっけ。
やっぱりこんな時に撮影をするなんて尋常じゃない。人としてどうなんだ。
親が倒れても、カメラの前で笑っていられるのだろうか。
その時になってみないと自信がない。
楽しくないのに笑えるもんか。人間なんだ。だけど悲しいからって仕事を投げ出すわけにはいかない。
それはダメだ。笑え。笑え。笑え。
色んな考えが浮かんでは消えていきました。
そんな時、最後に私を立たせて下さったのは、ファンの皆様でした。
沈んだ気持ちでFacebookやファンメールを開いてみれば、ローマにいる私を気遣ってくださる皆様の愛の溢れるコメントでいっぱいでした。
落ち込んでいる場合ではないのだ、と頭を打たれたような気になりました。
番組を楽しみに待ってくださっている皆様の顔が浮かぶと、よし、しっかりやろう、と自然に思いました。
思えば、曾祖母も私の雑誌やドラマを見るのが大好きな人でした。
元気に仕事をやりきることが一番正しいことなのだと理解しました。
私はいつなんどきも、お話を頂ける限り、全力で仕事をするのが自分の役目であると改めて思いました。
あの日からまた少し、強くなれたと思います。
支えてくださるファンの皆様のために、一人でも多くの方に笑顔をお届けするために、どんな時も明るく、頑張っていきたいです。
天国へもこの気持ちが届きますように。
2020年9月、また一人、女優の命が失われました。7月の俳優の自殺の件といい、今年は命の価値や、生きることの意味を何度も深く考えさせられます。この世には生きたくて必死に足掻いても叶わぬ人が星の数ほど存在し、その人々の分も、残された人が生きねばならないと私は思います。
(Part7につづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?