多数派の生きる指標となっている「ふつう」という概念のパラダイム変換
日本の教育システムは、明治時代に制定された学制以降ほとんど変わることなく一斉指導を貫いています。
先生が黒板の前に立って授業を行い、児童は全員黒板の方に向かって座って授業を受けるという昔ながらのスタイル。
多様化・ICT時代の到来と言われながらも、この一斉指導というシステムそのものがほとんど変わってない日本の教育。
このシステムが負の財産となり、特別な支援を必要とする児童の増加、不登校児童の増加、教員不足、休職する教員の増加などなど、現在の教育現場に簡単に解決することができない大きな課題が山積みになっています。
そんな一斉指導スタイルを継続する日本の学校現場は、閉塞感が漂い混沌とした状態です。
それを打破するべく、これからのクラスのウェルビーイングを考えてみました。
クラスのウェルビーイングは、
誰か特定の児童の幸せを指すわけではありません。
また、仮に30人学級だとして、28人が幸せと感じ、残りの2人が幸せだと感じていなかった場合、これもやはり違います。
とはいうものの、30人学級において、がウェルビーイングとなるためには、大きな障壁があります。
それは「ふつう」という言葉です。
今回は、わたしたちが何気なく使っている
「ふつう」
という言葉を通して、クラスのウェルビーイングについて考えてみようと思います。
みなさんは、どんな時に「ふつう」を使っていますか?
例えば、電車の中で
「ふつう、そんなことしないよね!」
と誰かが言っていた場合、その言われた相手は、どんなことをしていたか想像できますか?
・つり革で懸垂して遊んでいる。
・スマホで誰かと大きな声で電話している。
・化粧をしている。
どれも、ちょっとされたら嫌だな、迷惑だな、不快だなと感じてしまうものばかりです。
・ミュートにしてエログロ系の動画を観ている。
これは、見えなければ嫌だと感じることはありませんが、見えたら不快極まりないです。
・見た感じ元気そうな人が優先席に座っている
どうして座っているのか理由をきかない限り、真相はわかりません。
ですが、これらはどれも大多数の人が、ちょっと変わったことをしている少数の人に向けて投げかけた言葉であることに違いありません。
そして、言われた少数の側も、公共の場のマナーとして間違ったことを言われているわけではないので、逆ギレ以外は反論の余地もありません。
では、こんな場合はどうでしょう?
そんなクラスで以下のような事件がおこったとして考えてみます。
宿題としてやるべき漢字を間違えてやってきてしまった子(Aさん)がいたのです。
本来やるべき漢字は「外」「教」だったのですが、
Aさんは「絵」「強」をやってきてしまったのです。
隣の友達(Bさん)が、提出する前に気付き、
B「ダメだよ。A君、そこは宿題になってないから、やっちゃダメだよ。」
C「あっ本当だ。やっちゃいけないところだよ。」
そのうちに野次馬が集まり、A君を囲みます。
誰もA君を擁護する子どもはいません。
そこで、担任(T)が入ります。
T「何がダメなの?」
B「やっちゃいけない次の漢字を、A君が宿題でやってきてる。」
T「A君、どうしてその漢字をやってきたの?」
A「どこをやるのかわからなかったから…」
B「ふつうまちがえないでしょ?」
C「そうだよ、ふつう間違えないし!」
と言われ、Aさんは泣き始めます。
T「じゃあみんなにきくけど、間違えることってダメなこと?」
C「先に漢字をすすめたらダメだよ。先生がすすめたらだめっていってたよ。」
T「じゃあ、もし自分が間違えて宿題になっていない漢字をやってしまって、友達に、ダメだよって言われたらどんな気持ち?」
E「悲しい気持ちになる」
T「もう一度きくけど、間違えることってダメなこと?」
それでもやっぱりダメという子もいるので、さらに個別対応が必要になることもありますが…
ここまで言うとダメじゃないとほとんどの子が答えます。
低学年の場合、
間違えることよりも、担任が定めた独自ルールの方が優先されます。
子どもたちには担任絶対信仰があります。
これは発達段階上の特性です。
もしこのような状況下で、担任が多数派の意見にのっかり、
「ダメだよ、A君先の漢字をやってきたら!!」
と言ってしまったらどうなるでしょうか?
Bさんが言った
「ふつうまちがえないでしょ?」
が絶対的な価値となり、正義となります。
なぜなら、担任がダメだということを認めたからです。
最悪の場合、A君いじめが始まります。
対応遅れると不登校にもなりかねません。
この事例では、宿題はやっているけれども、やる場所を間違えたという例でした。
しかし、宿題を家で取り組むことが難しい子もいるはずです。
LD(学習障害)の子や学力が低い子、楽しいいことに目が向いて宿題わすれてしまう子などなど。
そんな中、一律に同じ宿題を全員に課すことが「ふつう」となっていいのでしょうか?
そのような子たちにとって、宿題を全員出すことが「ふつう」となってしまうと、居場所がなくなります。
先日、
「滋賀県内の不登校経験者と保護者に支援団体がアンケートを実施したところ、不登校のきっかけは「先生と合わない、怖い、体罰があった」など先生関連が最多の3割を占める結果」
というニュースがありました。
そのアンケート結果はこちらです。↓
この表は、文部科学省が不登校の原因をまとめたものです。
特筆すべきは、無気力・不安です。全体の約半数を占めています。
つまり、2人に1人は、無気力・不安が原因で不登校なのです。
学校とフリースクールでは結果が全然違います。
結果には、必ず原因があります。
両アンケートともツッコミどころ満載なので、結果の信憑性はともかく、
なぜこのような結果になってしまったのでしょうか?
それは、多数派優位の社会と多数派の生きる指標となる「ふつう」という発想そのものが、少数派を追い詰めたと言えます。
この多数派の指標となる「ふつう」の概念をパラダイム変換していかない限り、不登校は減らないだろうし、クラスのウェルビーイングは実現しません。
この漢字の宿題の事例で使われた「ふつう」という言葉は、
指示通り宿題をこなす多数派の子たちが、間違えてやってきてしまった少数派の子に対して使われています。
「ふつう」とはどんな意味があるのでしょう?
「みんなと同じ」
「多くの人と同じ」
という意味が含まれています。
多数派の人たちは、そんな意味について考えることもなく、ほとんど無意識に使っています。
そして、そのみんなと同じであることを「ふつう」としてしまったのが、日本の教育システムなのです。
ここで多くの人が使う「ふつう」には、おそらく悪意はありません。
「ふつう」であることで居場所を確保し、みんなと同じという安心感を抱きたいだけなのです。
同調圧力という言葉は、まさにこの多数派優位の社会の状況が生み出した言葉だと言えます。
全員が全く同じことをしているのであれば、この「ふつう」という言葉は存在すらしないはずです。
また、同じことをする必要がなければ同様に、「ふつう」という言葉自体、必要なくなります。
日本は学制以降、一斉指導スタイルを原則として指導をしてきたため、一人の教師が、同じ課題を40人近くの子どもに教えてきました。
算数などでは、習熟度別の少人数制を導入してはいるものの、他教科では相変わらず一斉指導の形態しかありません。
この一斉指導スタイルであるがゆえに、
「みんなと同じであること」が強要されてきたのです。
それが大きな負の財産となってしまいました。
例えば、授業の始まり方について考えてみましょう。
小学校では、ほとんどの場合、チャイムが鳴り終わるまでに着席し、チャイムが鳴り終わったら、挨拶をして授業が始まります。
クラス全員が、チャイム前に姿勢よくして座り、チャイム直後に挨拶ができていれば、「ふつう」という言葉自体必要ありません。
ですが、座っていない子が数名いたらどうでしょう?
チャイム前に座っている多数の子たちは、
「ふつう、チャイムが鳴ったら着席するよね」
となります。
この座っている子達は「多数派」です。
そして、座っていなかった子達は「少数派」となります。
どうして「ふつう」という言葉を使ってしまうのか?
それは、多数派の子たちが、少数派と区別するためです。
おそらく意識して使ってはいないでしょう。
しかし、「少数派と自分は違う」という意味で使っているはずです。
そしてこの多数派の子たちが
「ふつう」を使い始めると、
少数派の子たちは、できないことが顕在化され、自信をなくします。
この構造こそが、いじめや不登校の種となり、
少数派の子たちを追い詰め、いじめや不登校を生み出すことになるのです。
これは、支援を要する子たちだけの問題ではありません。
テレビなどで、アイドルが学生時代に壮絶ないじめがあったなどと、カミングアウトすることがあります。
これは、アイドルという芸能活動する子は少数派であり、その華やかな生活から多数派の子たちの妬みを生み、いじめが起きるのです。
それだけではありません。
例えば、小学校時代に勉強がよくできた多数派の一人が、中学受験に合格して私立中学校に入学したとします。
意気揚々と入学したものの、自分の学力が周囲に比べてかなり低く、少数派であることに気づいたとしましょう。
その場合、学力不振がきっかけで自信を失い、不登校になるかもしれません。
つまり、置かれた環境が変われば、多数派の人も突然少数派になることだってあるのです。
そういう時代だからこそ、パラダイム変換が必要とされているのです。
では、逆に、少数派の子たちが「ふつう」を使ったらどうなるでしょう?
「ふつう、チャイムがなっても理由あれば、着席できないこともあるよね」
「ふつう、つまらない授業を短くするために、着席しないよね」
「ふつう、行きたくなかったら学校行かなくてもいいよね」
「ふつう、芸能活動していたら、学校なんて休むよね」
となります。
この少数派の論理が多数派となってしまったら、どうなってしまうのでしょう?
40人学級のクラスなのに、10人しかいないなんていうことにもなりかねません。
学校に来ていないのであれば、オンライン授業で対応もできますが…
学校にきているのに、授業に参加しないとか、授業始まっても教室に戻ってこないという事態になったらもう、収集つきません。
ではどうしたらよいのか?
人は、一人一人の発達や置かれた環境の違いがあるということを理解し、
その考え方を「ふつう」
にしていかなければいけばよいのです。
そして、教室を、全員の居場所にしていかなければなりません。
それがクラスのウェルビーイングなのです。
まずは、現場の教師がまず行動していかないことには何も始まりません。
クラスのウェルビーイングを目指した学級経営をしていかなければなりません。
従来通りの多数派優位の学級経営では、さらなる不登校児を生み出します。
学級経営も時代の変化に伴い、パラダイム変換した新しい学級経営手法が求められていると言えるでしょう。
行動すれば教育も変わります。
行動しなければ何も変わりません。
この多数派による「ふつう」という言葉がなくなれば、教室が、本当の意味でクラス全員の居場所に変わります。
とはいうものの、担任1人の力では限界があります。
実現するためには、全学級に1日中、教室でサポートしてくれる副担任が必要です。
一番困っている担任がいる教室をサポートするために予算を使ってほしいです。
学校、行政、保護者の協力も必要です。
閉塞感漂う今だからこそ、互いに協力しあって、令和における新しい日本型の教育システムをつるのです。
理想とするクラスのウェルビーイングが実現するよう、「ふつう」から多様性へとパラダイム変換した教育活動を地道に実践していきたいと思います。
また、時代に合った新しい学級経営手法についても、いずれ紹介していきたいと思います。
クラスのウェルビーイングのために…
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