短くて奇妙な話(江戸時代の)
今、読んでいる本が面白いので、御紹介したい。
江戸中期に編まれた奇談集、『老媼茶話』である。
国書刊行会の『近世奇談集成[一]』の中にある。
特に印象的だった話を、現代語訳して御紹介する。
心優しい方々のために先にお伝えしておくと、とにかく、江戸時代の本であり、ネコ科の動物が死んでしまう話が混ざっている。怪談もある。
きのどくな虎 ( 『茅亭客話』から引用した話 )
酒に酔っている人間を、虎は傷つけない。
近頃、ひとりの村人が市に出た。酔って帰ったので、岸を目の前にしたところで、酒が回って横になってしまった。
虎がやってきて、この寝ている男の匂いを嗅いだ。
たまたま、虎のひげが男の鼻に入った。
酔っ払いは派手にくしゃみをした。
思いがけないことだったので虎は驚いて足を踏み外し、岸から落ちて死んでしまったという。
僧の奇病 ( 『聞奇録』から引用した話 )
唐土の金州に、水陸院という寺がある。文浄という僧がいる。
夏頃、雨が降った時に、雨のしずくが文浄のうなじにかかった。
そのかかったところが病気になってしまって、何年たっても治らなかった。だんだんと腫れてしまって、大きな桃のようになってしまったのである。
また五月になって、雨が降り、激しく雷が鳴ると、その腫れたところに穴があいて、ひどく痛み出した。人に見せると、穴の中に何かあるという。とぐろを巻いた龍の形のものが、穴の中で黒々と動いて、昼も夜もひどく痛んだ。
何日か経って、また雨が降り、鳴った雷が庭に落ちた。黒い雲が部屋に入ってきた。うなじの穴からものが出てきた。穴から抜けて雲に乗り、空へと登り去った。白い龍の姿で、長さは弐丈 (約六メートル) くらいに見えた。
この時から文浄のうなじは痛まなくなり、穴もすっかり治って、何の痕もない。
蟹 ( 『述異記』から引用した話 )
唐土に王宇窮という人がいた。
川の流れを下ってくる蟹を捕るため、川に簗を仕掛けておいた。
朝、行ってみると、弐尺 (約六十センチメートル) ほどの長さの切り株が簗にかかっていて、そのせいで簗がやぶれて、蟹が逃げてしまっていた。
すぐに簗をつくろって、切り株はその辺に捨てて帰った。
次の朝、行ってみると、また切り株が簗にかかっていて、また簗がやぶれていた。昨日と同じだった。
また簗をつくろって、また次の朝行ってみると、また昨日と同じだった。
これは怪しい、と王宇窮は考えた。(この切り株はとにかくばけものだ)と思い、蟹を入れる籠の中に切り株を入れて、家へと帰る。
「これから割って火で燃やそう」
家に近づくと、籠の中でもがくものが、かさこそと音を立てた。
見てみると、切り株の姿が変わっている。
人の顔で猿の体、手が一本、足が一本。
それが宇窮に言う。
「私は生まれつき蟹が好きなのだ。確かに水に入り簗を壊した罪はあるが、この罪を許して籠を開き私を出すならば、その返報として多くの蟹を捕らせてやろう。私は山の神である」
宇窮は言う。
「山の神だろうが何だろうが、何回めだと思ってるんだ。許さんぞ」
それは籠の中から懸命に、
「放してくれ。出してくれ」
と、心をこめて頼みこんだが、王宇窮は許さなかった。
それは名前をたずねてきたが、王宇窮は答えず、どんどん家に近づいていく。
それが言う。
「全く私を許さないし、姓名を聞いても答えない。もう手の打ちようがない。もう死ぬしかないのだ」
宇窮はすぐに家に帰って、火を焚いてそれを焼いた。
特に何も起こらなかった。
焼いたが、ひっそりと静かで、何の変化もない。
他にどうしようもないので、王宇窮はそれを許して帰らせたという。
土地の人間が言うには、
「それは山魈と呼ばれている。人間の名前を知ると、うまくそれを利用してその人間をひどい目に遭わせる。あと、よく蟹を食う」
とのことである。
飯寺村の青五輪
南山街道が通る飯寺村の、道ばたの西の方の田んぼの中に、本尊を供養するための大壇がある。
そこにある塚の上にかぶさるような、大きな榎の樹がある。
慈現院壇という山伏が、ここで即身仏になっているので、この塚を慈現院壇と呼んでいる、と老人は言う。
今も、深夜に耳をすませると、塚の中から法螺貝を吹く音が聞こえるのだという。
この塚の東向かいに、青五輪と呼ばれるものがある。
この石の五輪卒塔婆は夜な夜な化けて、慈現院壇から青五輪までの一面に鉄の網を張り、道を通る人の邪魔をする。
ある夜更け過ぎに、南山の男がこの場所を通った時、六尺もある大山伏と、同じ大きさの黒入道とが、口から火を吐いて鉄の網を張っていた。
その網の中に、児法師・女童の首が幾つも懸かっている。
その幾つもの首が一斉に男を見て、にこりにこりと笑う。
この男は元来不敵であったので、これを見て走り寄り、大入道の天辺をしたたかに斬りつけた。手応えがあって、網も山伏も入道も消え失せて深夜の闇となった。
その夜が明けて、この男は、昨夜化け物が出た道筋へと来た。
見ると、青五輪の天窓が半分斬り砕かれていて、わずかに血の色がのぞいていた。
この時からその刀を五輪くだきと名付けて秘蔵したということである。
夢枕 ( 赤羽随世翁の語った話のひとつ )
「古河の御城主は国光の脇差を御持ちであった。
或る時、御城主の夢の中に老翁が現れて、こう言った。
『明夜、君変化の為になやまされ給ふへし。我常に御側にあらさる故、かゝる怪物近付候。我は国光の刀の霊なり』
(明日の夜、殿は変化によって苦しめられるでしょう。私が常に御側にいないためにこのような化物が近付くのです。私は国光の刀の霊でございます)
そう言って消えてしまった。
明くる朝、御城主は、調度品の出し入れを管理する納戸役の者を御呼びになり、御城主のもとまで運ばせた国光の脇差を帯び給うた。
思った通り、その日の夜更け、人が静まった後、御城主の寝殿の障子が開いて、青ざめた大女房が入って来た。大女房が牙を剥き目を見開いて、御城主に飛び掛かろうとしたところを、御城主は件の国光の脇差で大女房を突き刺して止め給う。
大女房は、突然逃げて姿を消した。
その夜が明けて御城主が城の者に御尋ねになると、大きな猫が石垣の間に逃げ込んで死んでいた。
刀の名作に、このような不思議なことが起こったという話は、数え切れないほどあるものだ」
( 『老媼茶話』について )
『老媼茶話』は、江戸中期に会津藩の浪人三坂大弥太 (三坂春編) が編んだといわれる奇談集で、「草庵に住む隠士、松風庵寒流が老媼 (老女) の茶呑み話を書き写した」本というていなので『老媼茶話』という題がつけられている。
かなりいかついおばあちゃんの茶飲み話である。
明治三十六年に『近世奇談全集』に翻刻された (活字になった) という。
こちらの本では「ろうおうちゃわ」と読まれている。
泉鏡花がこの古典をもとに『天守物語』を書いたという話は確からしく、「亀姫」、「舌長姥 (したながうば) 」、「朱の盤 (しゅのばん) 」、「青五輪 (あおごわ/あおごりん) 」、「允殿館 (いんでんかん/じょうどのやかた) の大入道」、「姫路城の天守」などの話がこの本の中に入っている。とても面白い。妖怪の話はそれぞれに凄まじいのだが、『天守物語』の中では妖怪同士仲良く冗談など飛ばし合っていて大変によい。読み比べると面白さが深まる。
(明治四十三年、『遠野物語』に大喜びの鏡花先生が、「遠野の奇聞」の中で『老媼茶話』の朱の盤に触れている。)
この記事は、国書刊行会の『近世奇談集成[一]』(1992) 中の『老媼茶話』を読んで書いたので、おすすめしたいのはこちらの本なのだが、現在は品切のようで、筆者も、図書館で借りた後に古書で購入した。
磐梯山には天狗がいるし、飯綱使いは狐と話す。『老媼茶話』を読むと、会津はあたかも魅惑の妖怪ワンダーランドだが、おそらく、当時はどこも、そのようだったのだろう。話が記されて残ったおかげで――色々な方々のおかげで――こうして読むと蘇る。それもまた、不思議なことであるような気がする。
それでは、「亀姫」の話と、あともう一つ、いかにも鏡花先生の目を引きそうな「沼沢の怪」の話を御紹介して終わりたい。
亀姫
加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子が会津の御領主でいらした時、若松鶴ヶ城の支城、猪苗代亀ヶ城を預かる御城代は堀部主膳が務めていた。その禄は壱万石であった。
寛永十七年の十二月、主膳がただ独りで座敷にいたとき、どこからともなく、おかっぱの少女がやって来て、言った。
「お前は長くこの城に居るが、未だにこの城の主に御目見を致しておらぬ。急ぎ身を清め裃を着て来るがよい。今日、御城主は拝謁を御受けあそばしてもよいとの御上意である。敬って御目見仕るがよい」
主膳はこれを聞いて少女を睨み、
「この城の主は我が主人明成様であり、只今の城代はこの主膳である。この他に城の主があるはずもない。憎たらしい奴だ」
と少女を叱る。
少女は笑って、
「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らぬというのか。今、お前の天運はすでに尽き果て、また天運のあらたまる時を知らぬ。道理もなく悪く言ってはおらぬ。お前の命数は、すでに尽きた」
と言って消え失せてしまった。
年が明けて元日の朝、大勢の侍たちから正月の挨拶を受けるために、主膳が裃を着て広間に出ると、広間の上段に、真新しい棺桶が備えてあり、そのそばに、葬礼の道具が揃え置かれていた。また、その夜、どこともなく大勢の気配で、餅をつく音がしていた。正月十八日、主膳は雪隠から病みついて、二十日の暁に死んだ。
その年の夏、柴崎又左衛門という者が、三本杉の清水のそばで、七尺もある真っ黒の大入道が水をくんでいるのを見た。
又左衛門は刀を抜いて、飛びかかり斬りつけたが、大入道はたちまち姿を消した。
それから大分経ってから、八ヶ森で、大きな古狢の死骸のくさっているのを、猪苗代の木地小屋の者が見つけた。
その後はもう、奇妙なことは何も起こっていないという。
沼沢の怪
会津の金山谷に、沼沢の沼といって大きな沼がある。その深さは計り知れない。この沼には、沼御前という主がいる、と言い伝えられている。
正徳三年の五月、金山谷三右衛門という猟師が、暁にかけて、この沼に鴨撃ちにやってきた時、向こう岸に、二十ばかりの女が、腰から下だけ沼に浸かって、御歯黒の鉄漿をつけていた。
よくよく見ると女の髪は、長さが弐丈ほどもある。
「どう見ても異形の者だ」と思って、弐ッ玉を鉄砲に込め狙いすまして撃つと、女の胸を撃ち抜くと同時に、女は沼へと倒れこんだ。女が沼に沈むと、
“忽水底大雷電のことくに鳴はためき水波あらく岸を洗ひ雲くらく成、さしもの大沼虚空にわきあかり湯玉飛ちり湯煙天地をおゝひまつくらになる。”
(たちまち水底が大雷電のごとく鳴り轟き、激しい波が岸に押し寄せて雲が暗くなり、これほどに大きな沼が天地の間に、沸きあがり飛び散って湯煙で地面も空も覆われて真っ暗になる。)
三右衛門は仰天して、急いで自分の家に逃げ帰ったが、それから大雷大風大雨が三日三晩の間止まず、金山谷は真っ暗になった。誰もが仰天して「これはただごとではない」と恐れ慄いた。
その後、雨は止み、三右衛門の身にも何事もなかったという。
*「道ばたの右」を「道ばたの西」に修正し、「猪苗代」にルビを振って再投稿しました。(24.10.2)
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